はやはり猫らしく咽《のど》を鳴らすのである。土の香をかがせてやると二度に一度は用を便じた。浴室の戸を締め切ってスイッチを切ったあとの闇《やみ》の中に夜明けまでの長い時間をどうしているのかわからないが、ガラス窓が白《しら》むころが来ると浴室の戸をバサバサ鳴らし、例の小鳥のような鳴き声を出して早く出してもらいたいと訴えるのが聞こえた。行って出してやると急いで飛び出すかと思うとまたもとの所へ走り込んだり、そうしてちょうど犬の子のするように人の足のまわりをかけめぐるのである。十日余りもこのような事を繰り返した後に、試みに例の寝床のボール箱と便器とを持ち出して三毛の出入りする切り穴のそばに置いてなんべんとなくそこへ連れて行っては土の香をかがしてやった。翌朝気をつけてみたが蒲団《ふとん》や畳のよごれた所はどこにも見つからなかった。たぶん三毛に導かれて切り穴から出る事を覚えたのであろう。その後は明け方に穴からはい上がるたま[#「たま」に傍点]の姿を見かける事もあった。
異常に発達したたま[#「たま」に傍点]の食欲はいくぶんか減ってそれほどにがつがつしなくなって来た。気持ちの悪いほどふくれていた腹がそんなに目立たなくなって来るとやせた腰からあと足が妙に見すぼらしく見えるようになりはしたが、それでもどうやら当たりまえの猫《ねこ》らしい格好をして来るのであった。そしてやはりどこか飼い猫らしい鷹揚《おうよう》さとお坊っちゃんらしい品のある愛らしさが見えだして来た。
夏休みが過ぎて学校が始まると猫のからだはようやく少し暇になった。午前中は風通しのいい中敷きなどに三毛と玉《たま》が四つ足を思うさま踏み延ばして昼寝をしているのであった。片方が眠っているのを他の片方がしきりになめてやっている事もあった。夕方が来ると二匹で庭に出て芝生《しばふ》の上でよく相撲《すもう》を取ったりした。昼間眠られるようになってから夜中によく縁側で騒ぎだした。これには少し迷惑したが、腹は立たなかった。台所で陶器のふれ合う音がすると思って行って見ると戸を締め忘れた茶箪笥《ちゃだんす》の上と下の棚《たな》から二匹がとぼけた顔を出してのぞいていたりした。
ねずみはまだついぞ捕《と》ったのを見た事がないが、もうねずみのいたずらはやんでしまって、天井は全く静かになった。
縁の下で生まれたのら猫の子の三毛は今でも時々隣の庇《ひさし》に姿を見せる事がある。美しい猫ではあるが気のせいかなんとなく険相に見える。臆病《おくびょう》なうちの三毛はのら猫を見ると大急ぎで家に駆け込んで来るが、たま[#「たま」に傍点]のほうは全く平気である。いつかのら猫といっしょに遊んでいるのを見たという報告さえあった。「不良少年になるんじゃないよ」などといって頭をたたかれていたが、なんのためにたたかれるのか猫《ねこ》にはわからないだろう。
わが家の猫の歴史はこれからはじまるのである。私はできるだけ忠実にこれからの猫の生活を記録しておきたいと思っている。
月がさえて風の静かなこのごろの秋の夜に、三毛と玉《たま》とは縁側の踏み台になっている木の切り株の上に並んで背中を丸くして行儀よくすわっている。そしてひっそりと静まりかえって月光の庭をながめている。それをじっと見ているとなんとなしに幽寂といったような感じが胸にしみる。そしてふだんの猫とちがって、人間の心で測り知られぬ別の世界から来ているもの[#「もの」に傍点]のような気のする事がある。このような心持ちはおそらく他の家畜に対しては起こらないのかもしれない。
[#地から3字上げ](大正十年十一月、思想)
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
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