どんぐり
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)下谷摩利支天《したやまりしてん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|間《けん》ばかり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ほんとう[#「ほんとう」に傍点]の
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こいも/\/\/\/\
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もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮れもおし詰まった二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天《したやまりしてん》の縁日へ出かけた。十時過ぎに帰って来て、袂《たもと》からおみやげの金鍔《きんつば》と焼き栗《ぐり》を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとのせて、便所へはいったがやがて出て来て青い顔をして机のそばへすわると同時に急に咳《せき》をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血のけがなくなったのを見て、いっそう気を落としたとこれはあとで話した。
あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。このへんは物騒で、お使いに出るときっといやないたずらをされますので、どうも恐ろしくて不気味で勤まりませぬと妙な事を言う。しかし見るとおりの病人をかかえて今急におまえに帰られては途方にくれる。せめて代わりの人のあるまで辛抱してくれと、よしやまだ一介の書生にしろ、とにかく一家の主人が泣かぬばかりに頼んだので、その日はどうやら思い止まったらしかったが、翌日は国元の親が大病とかいうわけでとうとう帰ってしまう。掛け取りに来た車屋のばあさんに頼んで、なんでもよいからと桂庵《けいあん》から連れて来てもらったのが美代《みよ》という女であった。仕合わせとこれが気立てのやさしい正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、とにかく忠実に病人の看護もし、しかられても腹も立てず、そして時にしくじりもやった。手水鉢《ちょうずばち》を座敷のまん中で取り落として洪水《こうずい》を起こしたり、火燵《こたつ》のお下がりを入れて寝て蒲団《ふとん》から畳まで径一尺ほどの焼け穴をこしらえた事もあった。それにもかかわらず余は今に至るまでこの美代に対する感謝の念は薄らがぬ。
病人の容体はよいとも悪いともつかぬうちに年は容捨な
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