心細い事を言う。
 それにもかかわらず少しずつよい。月の十何日、風のない暖かい日、医者の許可を得たから植物園へ連れて行ってやると言うとたいへんに喜んだ。出かけるとなって庭へおりると、髪があんまりひどいからちょっとなでつけるまで待ってちょうだいと言う。ふところ手をして縁へ腰かけてさびしい小庭を見回す。去年の枯れ菊が引かれたままで、あわれに朽ちている、それに千代紙の切れか何かが引っ掛かって風のないのに、寒そうにふるえている。手水鉢《ちょうずばち》の向かいの梅の枝に二輪ばかり満開したのがある。近づいてよく見ると作り花がくっつけてあった。おおかた病人のいたずららしい。茶の間の障子のガラス越しにのぞいて見ると、妻は鏡台の前へすわって解かした髪を握ってぱらりと下げ、櫛《くし》をつかっている。ちょっとなでつけるのかと思ったら自分で新たに巻き直すと見える。よせばよいのに、早くしないかとせき立てておいて、座敷のほうへもどって、横になってけさ見た新聞をのぞく。早くしないかと大声で促す。そんなにせき立てると、なおできやしないわと言う。黙って台所の横をまわって門へ出て見た。往来の人がじろじろ見て通るからしかたなしに歩き出す。半町ばかりぶらぶら歩いて振り返ってもまだ出て来ぬから、また引っ返してもと来たとおり台所の横から縁側へまわってのぞいて見ると、妻が年がいもなく泣き伏しているのを美代がなだめている。あんまりだと言う。一人でどこへでもいらっしゃいと言う。まあともかくもと美代がすかしなだめて、やっと出かける事になる。実にいい天気だ。「人間の心が蒸発して霞《かすみ》になりそうな日だね」と言ったら、一|間《けん》ばかりあとを雪駄《せった》を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エヽと気のない返事をして無理に笑顔《えがお》をこしらえる。この時始めて気がついたが、なるほど腹の帯の所が人並みよりだいぶ大きい。あるき方がよほど変だ。それでも当人は平気でくっついて来る。美代と二人でよこせばよかったと思いながら、無言で歩調を早める。植物園の門をはいってまっすぐに広いたらたら坂を上って左に折れる。穏やかな日光が広い園にいっぱいになって、花も緑もない地盤はさながら眠ったようである。温室の白塗りがキラキラするようでその前に二三人ふところ手をして窓から中をのぞく人影が見えるばかり、噴水も出ていぬ。睡蓮《すいれん》
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