とんびと油揚
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)油揚《あぶらげ》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)腸詰め状|対流渦《たいりゅうか》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和九年九月、工業大学蔵前新聞)
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 とんびに油揚《あぶらげ》をさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上のねずみの死骸《しがい》などを発見してまっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい。
 とんびの滑翔《かっしょう》する高さは通例どのくらいであるか知らないが、目測した視角と、鳥のおおよその身長から判断して百メートル二百メートルの程度ではないかと思われる。そんな高さからでもこの鳥の目は地上のねずみをねずみとして判別するのだという在来の説はどうもはなはだ疑わしく思われる。かりにねずみの身長を十五センチメートルとし、それを百五十メートルの距離から見るとんびの目の焦点距離を、少し大きく見積もって五ミリメートルとすると、網膜に映じたねずみの映像の長さは五ミクロンとなる。それが死んだねずみであるか石塊であるかを弁別する事には少なくもその長さの十分一すなわち〇・五ミクロン程度の尺度で測られるような形態の異同を判断することが必要であると思われる。しかるに〇・五ミクロンはもはや黄色光波の波長と同程度で、網膜の細胞構造の微細度いかんを問わずともはなはだ困難であることが推定される。
 視覚によらないとすると嗅覚《きゅうかく》が問題になるのであるが、従来の研究では鳥の嗅覚ははなはだ鈍いものとされている。
 その一つの証拠としては普通ダーウィンの行なった次の実験があげられている。数羽の禿鷹《はげたか》コンドルを壁の根もとに一列につないでおいて、その前方三ヤードくらいの所を紙包みにした肉をさげて通ったが、鳥どもは知らん顔をしていた。そこで肉の包みを鳥から一ヤード以内の床上に置いてみたが、それでもまだ鳥は気がつかなかった。とうとうその包みを一羽の足もとまで押しやったら、始めて包み紙をつつきはじめ、紙が破れてからやっと包みの内容を認識したというのである。また他の学者はある種の鶚《みさご》の前へカンバスで包んだ腐肉を置き、その包みの上に鮮肉の一片をのせた。鳥は鮮魚を食い尽くしたが布切れの下の腐肉には気づかなかったとある。
 しかし、これはずいぶん心細い実験だと思われる。原著を読まないで引用書を通して読んだのであるからあまり強いことは言われないが、これだけの事実から、鷙鳥類《しちょうるい》の嗅覚《きゅうかく》の弱いことを推論するのははなはだ非科学的であろうと思われるし、ましてや、とんびの場合に嗅覚がなんらの役目をつとめないということを結論する根拠になり得ないことは明らかである。
 壁の前面に肉片を置いたときにでも、その場所の気流の模様によっては肉から発散する揮発性のガスは壁の根もとの鳥の頭部にはほとんど全く達しないかもしれない。また、ごく近くに肉の包みをおかれて鳥がそれをついばむ気になったのは、嗅覚にはよらずして視覚にのみよったということもそう簡単に断定はできない。それからまた後の例でも鮮肉を食ったために腐肉のにおいに興味がなくなったのかもしれない。あるいはまた食っているうちに鼻が腐肉の臭気に慣らされて無感覚になったということも可能である。
 ダーウィンの場合にでも試験用の肉片を現場に持ち込む前にその場所の空気がよごれていて、人間にはわからなくても鳥にはもうずっと前から肉のにおいか類似の他のにおいがしていて、それに慣らされ、その刺激に対して無感覚になっていたかもしれない。
 それからまた次のような可能性も考えなくてはならない。すなわち、ある食物が鳥の食欲を刺激してそれを獲得するに必要な動作を誘発しうるためには単に嗅覚《きゅうかく》の刺激ばかりでは不充分であって、そのほかに視覚なりあるいは他の感覚なり、もう一つの副条件が具足することが肝要であるかもしれないのである。
 あるいはまた、香気ないし臭気を含んだ空気が鳥に相対的に静止しているのでは有効な刺激として感ぜられないが、もしその空気が相対的に流動している場合には相当に強い刺激として感ぜられるというようなことがないとも限らない。
 鳥の鼻に嗅覚はないが口腔《こうこう》が嗅覚に代わる官能をすることがあるとある書に見えているが、もしも香を含んだ気流が強くくちばしに当たっている際にくちばしを開きでもすれば、その香が口腔に感ずるということもあるかもしれない。
 上述のごとく、視覚による説が疑わしく、しかも嗅覚否定説の根拠が存外薄弱であるとして、そうして嗅覚説をもう一ぺん考え直してみるという場合に、一
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