女の方でそこへ行って何かしら話をしていたのである。
 われわれの問題は、虫が髪に附いてから、それが首筋に這い下りて人の感覚を刺戟するまでにおおよそどのくらいからどのくらいまでの時間が経過するものかというのであった。もしもその時間が決定され、そしてその人が電車で来たものと仮定すれば、その時間と電車速度の相乗積に等しい半径で地図上に円を描き、その上にある樹林を物色することが出来る。しかし実際はそう簡単には行かない。
 しかしこの玉虫の一例は、われわれがわれわれの現在にこびり付いた過去の一片をからだのどこかにくっつけて歩いているということのいい例証にはなるであろう。
 もしもその日の夕刊に、吉祥寺か染井の墓地である犯罪の行われた記事が出たとしたら、探偵でない自分は、少なくも一つの月並みな探偵小説を心に描いて、これに「玉虫」と題したかもしれない。
 アルコールを飲んだ玉虫はとうとう生き返らなかった。人間だとしたらたぶん一ポンドくらいの純アルコールを飲んだわけである。
 手近にあった水銀燈を点じて玉虫を照らしてみた。あの美しい緑色は見えなくなって、※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》
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