、しかもそれはすぐに飽和される性質のものであるから、この感覚を継続させるためには結局週期的の変化が必要になると考えられる。
 子供の時分、暑い盛りに背中へ沢山の灸《きゅう》をすえられた経験があるが、あの時の背中の感覚にはやはり「涼しさ」とどこか似通ったある物がある。これはここの仮説を裏書する。
 こんな事を考えていたのであるが、今年の夏|房州《ぼうしゅう》の千倉《ちくら》へ行って、海岸の強い輻射《ふくしゃ》のエネルギーに充たされた空間の中を縫うて来る涼風に接したときに、暑さと涼しさとは互いに排他的《エキスクルーシヴ》な感覚ではなくて共存的な感覚であることに始めて気が付いたのである。暑いと同時に涼しいということあるいはむしろ暑い感じを伴うことなしに涼しさは感じ得られないということが一般的な事実であるのに、われわれは暑い涼しいという二つの言葉が反対のことのように思い込んでしまっていたために、こんな分り切ったことに今まで気が付かないでいたのではないか。ここでもわれわれは「言葉」という嘘つきに欺されていたのではないか。
「暑い」ということと寒暖計の示度の高いということとも、互いに関係はあるが同
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