より自然に又人間的である。かの体面を維持するに急がはしき教師、医師、法律家、技師の如き姉妹の内部生活はその実日に日に空虚に涸死しつゝあるのである。
現在に於ける婦人の独立と解放の観念の狭義に解せらるゝこと、自己と社会上の位置を同じうせざる男子を恋するの恐怖、恋愛が自己の自由と独立とを奪はんとの※[#「りっしんべん+危」、15−21]惧、母たるの愛と喜びが職業に全力を捧ぐることを障《さまた》げんとの杞憂――全てこれ等の意識の集合は近代の解放せられたる婦人を強迫的に尼僧たらしめんとするのである。人生は彼女の前に其の偉なる清き悲哀と、深く恍惚たらしむる歓喜を抱きながら、少しも彼女の霊魂に触るゝことなくして回転するのである。
大多数の論者によつて解せらるゝが如き、所謂解放は、真の自由なる婦人、愛人、母等の深き情緒中に含まれたる無限の愛と歓喜とを許すにはその範囲があまりに狭隘である。
経済的に自主自由なる婦人の悲劇は経験の過多より生ずるのではなく、反つてその過少に起因してゐるのである。誠に、彼女の社会及び人生に対する智識は過去の姉妹に比して遙かにすぐれてゐる。何故なれば彼女は常に人生の核の
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