て見たいと思うのだった。自分のもっているだけの情熱も力もそこならばいっぱいに傾け尽くせそうに思われた。
私は、自分の現在の生活に対する反抗心が炎え上がると、そういう特殊な仕事の中に、本当に強く生きて動く自分を夢想するのだった。
しかし、その夢想と眼前の事実の間には、文字通りの隔りがあった。私はやはり夢想を実現させようとする努力よりも、一日々々の事に逐われていなければならなかった。けれどそれは決してそうして放って置いてもいいことではなかった。必ずどっちかに片をつけなければならないことなのだった。
私に、特にそうした、はっきりした根のある夢想を持たせるように導いたのは、山岡が二三年前に創めた「K」雑誌であった。私は何にも知らずに、そのうすっぺらな創刊号を手にしたのであった。私の興味は一度に吸い寄せられた。号を逐って読んでいるうちに、だんだんに雑誌に書かれるものに対する興味は、その人達の持つ思想や主張に対する深い注意に代っていった。そのうちに私の前に、もっと私を感激させるものが置かれた。それは、エンマ・ゴオルドマンの、特に、彼女の伝記であった。私はそれによって始めて、伝道という「奴隷の勉強をもって働き、乞食の名誉をもって死ぬかもしれない」仕事に従事する人達の真に高価な「生き甲斐」というようなものが本当に解るような気がした。
それでも、私はまだできるだけ不精をしようとしていた。それには、一緒にいるTの影響も大分あった。彼は、ずっと前から山岡達の仕事に対しては理解も興味も持っていた。しかし、彼はいつもの彼の行き方どおりに、その人達に近よって交渉をもつことは嫌だったのだ。交渉をもつことが嫌だというよりは、彼は山岡達のサークルの人達が、どんなにひどい迫害を受けているかをよく知っていたので、その交渉に続いて起こる損害を受けるのが馬鹿らしかったのだ。それ故私もまた、それ程の損害を受けないでも、自分には、手近かな「婦人解放」という他の仕事があるのだ、「婦人解放」といった処で、これも間違いのない「奴隷解放」の仕事なのだから意味は一つなのだなどと、勝手な考えで遠くから山岡達の仕事を、やはり注意ぶかくは見ていた。
思いがけなく、今日まで避けてきたことを、今、事実によって、考えの上だけでも極めなければならなくなったのだ。
「曲りなりにも、とにかく眼前の自分の生活の安穏のために努めるか。遙かな未来の夢想を信じて『奴隷の勉強』をも、『乞食の名誉』をも甘受するか。」
もちろん私はどこまでも、自分を欺きとおして暮らしていけるという自信はない。そのくらいなら、これほど苦しまないでも、とうにどこかに落ちつき場所を見出しているに相違ない。では後者を選ぶか? 私はどのくらい、それに憧憬をもっているかしれない。本当に、すぐにも、何もかもすてて、そこに駆けてゆきたいのだ。けれど、そこに行くには、私の今までの生活をみんな棄てなければならない。苦しみあがきながら築きあげたものを、この、自分の手で叩きこわさねばならない。今日までの私の生活は、何の意味も成さないことになりはしないか? それではあんまり情なさすぎる。しかし、今日までの私の卑怯は、みんなその未練からではないか。本当の自分の道が展かれて生きるためになら、何が欲しかろう? 何が惜しかろう? 何物にも執着はもつまい。もたれまい。ああ、だが――もし本当にこう決心しなければならない時が来たら――私はどんなことがあっても、辛い目や苦しい思いをしないようにとは思わないけれど、それにしても、今の私にはあまりにつらすぎる。苦しすぎる。せめて子供が歩くようになるまでは、ああ! だが、それも私の卑怯だろうか?
六
M氏の谷中ゆきは実行されなかった。せっかく最終の決心にまでゆきついた人々に、また新らしく他人を頼る心を起こさしては悪いという理由で、他から止められたのであった。氏は私のために谷中に関することを書いたものを持ってきて貸してくれたりした。
私がそれ等の書物から知り得た多くのことは、私の最初の感じに、さらに油を注ぐようなものであった。その最初から自分を捉えて離さない強い事実に対する感激を、一度はぜひ書いてみようと思ったのはその時からであった。そして、その事を考えついた時には、自分のその感じが、果して、どのくらいの処まで確かなものであるかを見ようとする、落ちついた決心も同時に出来ていた。それが確かめられる時に、私の道が始めて確かになる。私は本当にあわてずに自分の道がどう開かれてゆくかを見ようと思った。
私がそうして、真剣に考えているようなことに対して、本当に同感し、理解をもつ事の出来る友人は私の周囲にはひとりもなかった。そういうことに対してはTを措いて他にはないのに、今度はTでさえも取り合ってはくれない……。私は本当にだまりこくって、独りきりで考えているより仕方がなかった。しかし、とにかく、私はさんざん考えた末に、二日ばかりたってから、思い切って山岡の処に初めての手紙を書いた。もちろん、谷中の話も、聞いてからの気持を順序もなく書いたものだった。私は、もしそれによって彼のような立場にいる人の考えをさぐることができればとも思い、また、それによって、自分の態度に、気持に、ある決定を与えることができればいいと思ったのであった。
しかし私は彼からも、何ものをも受取ることができなかった。彼もまた、私の世間見ずな幼稚な感激が、きっと取り上げる何の価値もないものとして忘れ去ったのであろうと思うと、何となく面映ゆさと、軽い屈辱に似たものを感ずるのであった。同時に出来るだけ美しく見ていたその人の、強い意志の下にかくれた情緒に裏切られたような腹立たしさを覚えるのであった。私はもうこのことについては、誰にもいっさい話すまいと固く断念した。山岡にも其後幾度も遇いながら、それについては素知らぬ顔で通した。
二年後に、私とTとは、種々な事情から一緒に暮らすことはできないようにまで離れてきた。私はいったん家を出て、それから静かに、自分一人の「生き甲斐」ある仕事を本当にきめて勉強しようと思った。私はあんまり若くて、あがきのとれない生活の深味にはいったことを、本当に後悔していた。
けれど、事は計画どおりにすらすらとは、大抵の場合運ばない。もうその話にある決定がついて後に、山岡と私は初めて二人きりで会う機会を与えられた。そして、それがすべての場面を一変した。順当に受け容れられていたことが、すべて曲解に裏返された。私はその曲解をいい解くすべもすべての疑念を去らせる方法も知っていた。しかし、すべては世間体を取り繕う、利巧な人間の用いるポリシイとして、知っているまでだ。私はたとえばどんなに罵られようが嘲られようが、まっすぐに、彼等の矢面に平気でたってみせる。彼等がどんなに欺かれやすい馬鹿の集団かということを知っていても、私はそれに乗ずるような卑怯は断じてしない。第一に自分に対して恥ずかしい。また今度の場合、そんなことをして山岡にその卑劣さを見せるのはなおいやだ。どうなってもいい。私はやはり正しく生きんがために、あてにならない多数の世間の人間の厚意よりは、山岡ひとりをとる。それが私としては本当だ。それが事実か事実でないか、どうして私以外の人に解ろう?
Tと別れて、山岡に歩み寄った私を見て、私の少い友達も多くの世間の人と一緒に、
「邪道に堕ちた……」
と嘲り罵った。けれど、彼等の中の一人でも、私のそうした深い気持の推移を知っている人があるであろうか?
久しい間の私の夢想は、かの谷中の話から受けた感激によって目覚まされた。私の目からは、もはや決して、夢想ではなく、彼の歩み入るべき真実の世界であった。その真実の前では、私は何ものにも左右されてはならなかった。こうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々な意味での危険を含む最大の転機に立った。今まで私の全生活を庇護してくれたいっさいのものを捨てた私は、背負い切れぬほどの悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜りぬけた。私は新たな世界へ一歩踏み出した。
「ようようのことで――」
山岡と私は手を握り合わされた。しかしその握手は、二人にとっては、世間の人に眉をひそめさすような恋の握手よりは、もっと意味深いものであった。やっとのことで私の夢想は、悲しみと苦しみと歓びのごちゃごちゃになった、私の感情の混乱の中に実現された。私は彼の生涯の仕事の仲間として許された。一度は拒絶しても見たY――K――等いう彼と関係のある女二人に対しても、別に、何の邪魔も感じなかった。まっすぐに自分だけの道を歩きさえすればいいのだ。他の何事を省みる必要があろう? とも思った。あんな二人にどう間違っても敗ける気づかいがあるものかと思った。またあんな事は山岡にまかしておきさえすればいい。自分達の間に間違いがありさえしなければ、自分達の間は真実なんだ。あとはどうともなれとも思った。要するに、私は今までの自分の生活に対する反動から、ただ真実に力強く、すばらしく、専念に生きたいとばかり考えていた。
しかし、とはいうものの、山岡との面倒な恋愛に関連して、彼の経験した苦痛は決して少々のものではなかった。幾度私はお互いの愚劣な嫉妬のために、不快に曇る関係に反感を起こして、その関係から離れようと思ったかしれない。けれど、そんな場合にいつでも私を捕えるのは、私達の前に一番大事な生きるための仕事に必要な、お互いの協力が失われてはならないということであった。
山岡に対する私の愛と信頼とは、愛による信頼というよりは、信頼によって生まれた愛であった。彼の愛を、彼に対する愛を拒否することは、もちろん私にとって苦痛でないはずはない。しかしそれはまだ忍べる。彼に対する信頼をすてることは、同時にせっかく見出した自分の真実の道を失わねばならぬかもしれない。それは忍べない。私はどうしても、どうなっても、あくまで自分の道に生きなければならない。
そうして、私はすべてを忍んだ。本当に体中の血が煮えくり返る程の腹立たしさや屈辱に出会っても、私は黙って、おとなしく忍ばねばならなかった。それはあらゆる非難の的となっている、私の歩みには、必然的につきまとう苦痛だったのだ。そして、私が一つ一つそれを黙って切り抜けるごとに、卑劣で臆病な俗衆はいよいよ増長して調子を高める。しかし、たとえ千万人の口にそれが呪咀されていても、私は自身の道に正しく踏み入る事のできたのは、何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。
谷中の話を聞いた当座の感激は、今の私にはもうまったくないといってもいい。しかし、その感激は知らず知らずのうちに俗習と偏見の生活に巻き込まれ去ろうとする私を救い出した。谷中村と云う名は、今はもう忘れようとしても忘れられぬ程に、私の頭に刻み込まれている。もちろん、山岡と私の間には、その話は折々繰り返された。一度はその廃村の趾を見ておきたいという私のねがいにも彼は賛成した。
ちょうど、四五日前の新聞の三面に、哀れな残留民がいよいよこの十日限りで立ち退かされるという十行ばかりの簡単な記事を私は見出した。すぐに、私の頭の中には、三四年前のM氏の話が思い出された。
「もういよいよこれが最後だろう。」
という山岡の言葉につけても、ぜひ行って見たいという私の望みは、どうしても捨てがたいものになった。とうとう、その十日が今日という日、私は山岡を促し立てて、一緒に来て貰ったのであった。
七
行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。それはこの何里四方という程な広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見る
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