かげもない残骸を、いたましくさらしている。しかも、その一本の枯れた木に、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めているような感じさえする。
 行くほど空の色はだんだんに沈んでき、沼地はどこまでともしらず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。二人の話がとぎれると、私達の足元からもつれて起こる草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さがひとりでに浮かんでくるのであった。
「どうしたい?」
「まだかしら、ずいぶん遠いんですね。」
「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足をひきずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?」
「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの、こんな処、とても私達だけで来たんじゃ解りませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ。」
「ああ、これじゃちょっと分らないね。どうだい、一人でこんなに歩けるかい。今日は僕こないで、町子ひとりをよこすんだったなあ、その方がきっとよかったよ。」
 山岡はからかい[#「からかい」に傍点]面にそんなことをいう。
 「歩けますともさ。だって、今そんなことをいったってもう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ。」
  私はそういった。けれど山岡の冗談は、私には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、私は彼に向って甘えたり、ふざけたりして来た。彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、私はひとりでに顔が赤くなるように感じた。その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、私の内心はすっかり悄気てしまっていた。
「何しに来た?」
 そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、彼もきてくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら? 二人で歩いていてさえあまりにさびしすぎるこんな道を――。私は黙った。急にあたりの景色がいっそう心細く迫ってくるようにさえ思われる。
 蘆の疎らな泥土の中に、くるった土台の上に、今にも落ちそうに墓石が乗っているのが二つ三つ、他には土台石ばかりになったり、長い墓石が横倒しになっていたりして見える。それが歩いてゆくにつれて、彼方にも此方にも、蘆間の水たまりや小高く盛り上げた土の上に、二つ三つと残っている。弔う人もない墓としか思われないような、その墓石の傍まで、土手からわざわざつけたかと思われそうな畔道が、一条ずつ通っているのも、この土地に対する執着の深い人々の、いろいろな心根が思いやられる。
 泥にまみれて傾き横たわった沼の中の墓石は、後から後からと、私に種々な影像を描かせる。その影像の一つ一つに、私の心はセンティメンタルな沈黙を深めてゆく。あたりは悲し気に静まり返って、私の心の底深く描かれる影像を見つめている。亡ぼしつくされた「生」が今、一時にこの枯野に浮き上がってきて、みんなが私の心を見つめている。――その感じが私に迫ってくる。同時に今にもあふれ出しそうな、あてのない私のかなしみを沈ますような太いゆるやかなメロディが、低く強く私を襲ってくる。今までただ茫漠と拡がっていた黄褐色と灰色の天地の沈黙が、みるみる私の前に緊張してくる。けれど、やがてそれもいつの間にか消え去った影像と同じく、その影像を描いたセンティメントが消えてしまう頃には、やはりもとの何の生気もない荒涼とした景色であった。しかし、私はそれで充分だ。僅かに頭をもたげた私のセンティメントは、本当のものを見せてくれたのだ。
「何しに来た?」
 もう私はそういってとがめられることはない。一人で来たら私のセンティメントはもっと長く私を捕えたろう。もっと惨めに私を圧迫したろう。だが、もう充分だ。これ以上に私は何を感ずる必要があろう。私はしっかり山岡の手につかまった。
 ようやくに、目指すS青年の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。木立の中の藁屋根がはっきり見え出した時には、沼の中の景色もやや違ってきていた。木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。蘆間の其処此処に真黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や、菜の葉などが、生々と培われてある。
 道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。見ると沼の中に降りる細い道がついている。土手の下まで降りて見ると、沼の中には道らしいものは何にもない。蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のように所々高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。
「あら、道がないじゃありませんか。こんな処から行けやしないでしょう?」
「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?」
「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか。」
「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか。」
「だって、いくら何んだって道がないはずはないわ。」
「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?」
「向うの方にあるかもしれないわ。」
 私は少し向うの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっている処を指しながらいった。
「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか、ぐずぐずいってると置いてくよ。ぜいたくいわないで裸足になってお出で。」
「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ。」
「ここでそんなこといったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?」
 山岡は、そんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋をぬいで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。私はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人達が歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるに違いないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういう処を毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。それでも山岡の最後の言葉には、私はまたしても自分を省みなければならなかった。私はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って山岡の後から沼の中にはいった。冷たい泥が足の裏にふれたかと思うと、ぬるぬると、何ともいえぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首までかくしてしまった。そのつめたさ! 体中の血が一度に凍えてしまう程だ。二三間は勢いよく先に歩いていった山岡も、後から来る私をふり返った時には、さすがに冷たい泥水の中に行きなやんでいた。
「どう行ったらいいかなあ。」
「そうね、うっかり歩くとひどい目に会いますからね。」
 ついそこに木立は見えているのだが、うっかり歩けば、どんな深い泥におちこむかもしれないし、私たちは一と足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿をさがし出した。そこは一反歩くらいな広い畑で、四五人の人が麦を播いていたのだ。私達がS青年の家への道を聞くと、その人達は不思議そうに私達二人を見ながら、この畑の向うの隅からゆく道があるから、この畑を通ってゆけといってくれた。けれど私達の立っている処と、その畑の間には小さな流れがあった。私には到底それが渡れそうにもないので、当惑しきっているのを見ると、間近にいた年を老った男は、すぐに私に背を貸して渡してくれた。私達はお礼をいって、その畑を通りぬけて、再びまた沼地にはいった。畑に立っていた二人の若い女が、私の姿をじっと見ていた。私はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。柔らかに私の体を包んでいる袖の長い着物が、その時ほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。甲斐々々しい女達の目には、小さな流れ一つにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう? だが一体どうしたことだろう? まさかにあの新聞の記事があとかたもない嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人達が、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう? やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。私はひとりでそんなことを考えながら、山岡には一二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までも来る蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、一と足ずつにようやくに運んでゆくのであった。
「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね。」
 山岡は後をふり向きながらいった。
「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私達ならすぐ病気になりますね。よくまあこんな処に十年も我慢していられること。」
 といっているうちにも、一と足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も私は立ち止まった。少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上辷りのする泥の中にふみしめる力もない。下半身から伝わる寒気に体中の血は凍ってしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、私はもう半泣きになりながら、山岡に励まされて僅かの処を長いことかかってようように水のない処まで来ると、そこからはSの家の前までは、細い道がずっと通っていた。

        八

 木立の中の屋敷はかなりな広さをもっている。一段高くなった隅に住居らしい一棟と、物置小屋らしい一棟とがそれより一段低く並んでいる。前は広い菜圃になっている。畑のまわりを鶏が歩きまわっている。他には人影も何にもない。取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいていった。正面に向いた家の戸が半分しめられて、家の中にも誰もいないらしい。
「御免!」
 幾度も声高にいって見たが何の応えもない。住居といっても、傍の物置きと何の変りもない。正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二三枚しまるようになった処が開いている。他は三方とも板で囲われている。覗いて見ると、家の奥行きは三間とはない。そこの低い床の上に五六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。もちろん押入れもなければ戸棚もない。夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上りかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャにおかれてある。土間の大部分は大きな機で占められている。家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。けれどもその狭い畳の上には、他のものとは全くふつりあいな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。机のすぐ上の壁には、T翁の写真が一つかかっている。人気のない家の中には、火の気もないらしかった。私達二人は寒さにふるえながら、着物の裾を端折ったまま、戸のあいたままになっている敷居に腰を下ろした。
 腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩きまわっている。木立で囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立の外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。
 二人が腰をかけている処から、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向って呼ぶ声がする。返事をしながら、其方の方に歩いて
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