は、私の望むような、批判的な考えの方には導かないで、何となく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民達の惨めな生活を想像させるのであった。私の心は果てしもなく拡がる想像の中にすべてを忘れて没頭していた。
「おい、何をそんなに考え込んでいるんだい?」
 よほどたってTは、不機嫌な顔をして、私を考えの中から呼び返した。
「何って先刻からのことですよ。」
「なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。」
「そんなことは、私だって知っていますよ。だけど他人のことだからといって、考えずにゃいられないから考えているんです。」
 私はムッとしていった。どうにもならない他人のことを考えるひまに、一歩でも自分の生活を進めることを考えるのが本当だということくらい知っている。Tの個人主義的な考えの上からは、私がいつまでも、そんなよそごとを考えているのは、馬鹿馬鹿しいセンティメンタリストのすることとして軽蔑すべきことかもしれない。現に今日私とM氏との間に交わされた話も、彼には普通の雑談として聞かれたにすぎない。けれど、今私を捉えている深い感激は、彼のいわゆる幼稚なセンティメンタリズムは、彼の軽蔑くらいには何としても動かなかった。そればかりではない、今日ばかりはそうした悲惨な話に、無関心なTのエゴイスティックな態度が忌々しくて堪らないのであった。
「他人の事だからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。」
「そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、切りはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん可愛想な目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴等は、意気地がないからそういう目に遇うんだと思えば間違いはない。いつでも愚痴をいってる奴にかぎって弱いのと同じだ。自分がしっかりしていて、不当なものだと思えばどんどん拒みさえすればそれでいいんだ。世の中のいろんなことが正しいとか正しくないとかそんなことがとても一々考えられるものじゃない。要するに、みんなが各々に自覚をしさえすればいいんだ。今日の話の谷中の人達だって、もう家を毀されたときから、とても自分達の力で叶わないことは知れ切っているんじゃないか。少しばかりの人数でいくら頑張ったってどうなるものか。そんな解り切ったことにいつまでも取りついているのは愚だよ。いわば自分自身であがきのとれない深みにはいったようなもんじゃないか。」
「そんなことが解れば苦労はしませんよ。それが解る人は買収に応じてとうに、もっと上手な世渡りを考えて村を出ています。何もしらないから苦しむんです。一番正直な人が一番最後まで苦しむことになっているのでしょう? それを考えると、私は何よりも可愛想で仕方がないんです。」
「可愛想は可愛想でも、そんなのは何にも解らない馬鹿なんだ。自分で生きてゆくことのできない人間なんだ。どんなに正直でもなんでも、自分で自分を死地におとしていながらどこまでも他人の同情にすがることを考えているようなものは卑劣だよ。僕はそんなものに向って同情する気にはとてもなれない。」
 私は黙った。しかし頭の中では一時にいいたいことがいっぱいになった。いろいろTのいったことに対しての理屈が後から後からと湧き上がってきた。Tはなお続けていった。
「お前はまださっきのMさんの興奮に引っぱり込まれたままでいる。だから本当に冷静に考えることができないのだよ。明日になってもう一ど考えてごらん。きっと、もっと別の考え方ができるに違いない。お前が今考えているように、みんながいくら決心したからといって、決して死んでしまうようなことはないよ。そういうことがあるものか。よしみんなが溺れようとしたって、きっと救い出されるよ。そして結局は無事にどこかへ、おさまってしまうんだ。本当に死ぬ決心なら相談になんぞ来るものか。今いっている決心というのは、こうなってもかまってくれないかという面当てなんだ、脅かしなんだ。なんで本気に死ぬ気でなんかいるもんか。もし、そうまで谷中という村を建て直したいのなら、どこか他のいい土地をさがして立派に新らしい谷中村を建てればいいんだ。その意気地もなしに、本当に死ぬ決心ができるものか。お前はあんまりセンティメンタルに考え過ぎているのだよ。明日になって考えてごらん、きっと今自分で考えていることが馬鹿々々しくなるから。」
 けれど、この言葉は、私にはあまりに酷な言葉だった。
 私がいま、できるだけ正直で善良で可愛想な人達として考えている人々の間に、そんな卑劣なことが考えられているのだというようなことを、どうして思えよう!
 だが私はまた、「その善良な人達が何でそんなことを考えるものですか」とすぐに押し返していう程にも、そのことを否定してしまうことはできなかった。
 けれど、なお私は争った。
 この可愛想な人達の「死ぬ」という決心が、よしTのいうように面当てであろうと、脅かしであろうと、どうして私はそれを咎めよう。もしそれが本当に卑劣な心からであっても、そんなに卑劣には何がしたのだろう?
 自分の力でたつ事が出来ないものは、亡びてしまうより他に仕方がない。そうして自から、その自分を死地に堕す処に思いきり悪く居残っているものが亡びるのは当然のことだ。それに誰が異議をいおう。だのに、私はなぜその当然のことに楯つこうとするのだろう?
 私はそこに何かを見出さなければならないと思いあせりながら、果しもない、種々な考えの中になにも捕捉しえずに、何となく長い考えのつながりのひまひまに襲われる、漠然とした悲しみに、床についても、とうとう三時を打つ頃まで私の目はハッキリ灯を見つめていた。

        五

 次の日も、その次の日も、当座は毎日のように、私は目前に迫った仕事のひまひまには、黙って一人きりでその問題について考えていた。Tのいったことも、漸次に、何の不平もなしに真実に受け容れる事ができてきはしたけれど、最初からの私自身が受けた感じの上には何の響きもこなかった。
 Tの理屈は正しい。私はそれを理解することはできる。しかし、私にはその理屈より他に、その理屈で流してしまうことのできない、事実に対する感じが生きている。私はそれをTのように単に幼稚なセンティメンタリズムとして、無雑作に軽蔑することもできないし、無視することもできないのだ。
 私がたまたま聞いた一つの事実は、広い世の中の一隅における、ほんの一小部分の出来事に過ぎないのだ。もっともっと酷い不公平を受けている人も、もっと悲惨な事もあるかもしれないということくらいは、私にも解らない事はない。けれど私は、それ等の事実にかんがみて、直ちに「まず自分の生活をそのように惨めに蹂躙されないように、自分自身の生活から堅固にして行かねばならぬ」と考えてしまうことはできない。もちろん、まず自身の生活に忠実であらねばならぬということは、私達の生活の第一義だとは、私も考えるけれど、私自身の今日までの生活を省みて、本当に自分の生活を意のままにしようと努力して、その努力に相当する結果が、一つでも得られたろうか? 私達は大抵の場合、自分達の努力に幾十倍、幾百倍ともしれない世間に漲った不当な力に圧迫され、防ぎ止められて、一歩も半歩も踏み出すことはおろか、どうかすれば反対に、底の底まで突き落されはね飛ばされなければならなかったではないか? ただ、「正しく、偽わらず、自己を生かさんがために」のみ、どれ程の無駄な努力や苦痛を忍ばねばならなかったかを思えば、いろいろな堪えがたい不当な屈辱をどうして忍ばねばならなかったかを思えば、「不公平を受ける奴は意気地がないからだ」と、ひと口にいい切ってしまうことがどうしてできよう? 私達はまだ、どんな不当な屈辱をでも忍ぶだけの、どんな苦痛をも堪え得る、自分に対する根拠のある信条をも持っていれば、物事の批判をするに都合のいい、いくらかの知識も持っている。意気地がないという、その多数の人達にはそれがない。単に「天道様が見ていらっしゃる」くらいの強いられた、薄弱な拠り処では、彼等の受けている組織立った圧迫には、あまりに見すぼらし過ぎる。それだから「乗ぜられ圧倒されるのが当り前」だけれど、私はそれだからなおさら無知な人達が可愛想でならない。気の毒でならない。人間として持って生まれた生きる権利に何の差別があろう? だのに、なぜ、ただ無知だからといって、その正しい権利が割引されなければならないのか? 恐らく、それに対する答えはただ一つでいい。どんなに無知であろうとも、彼等はその一つのことを知りさえすればいいのだ、だが、彼等はそれを何によって知ればいいのだろう?「彼等自身で探しあてるまで」待つより仕方がないという人もあるだろう? けれど、それまでじっと見ていられぬ者はどうすればいいのだろう?
 自分も生きるためには戦わねばならない。そして同時に、もっと自分よりも可愛想な人々のためにも戦うことはできないであろうか。
 私が今日まで一番自分にとって大切なこととしていた「自己完成」ということが、どんな場合にでもどんな境地においても、自分の生活においての第一の必須条件であるという事は、私にはだんだん考えられなくなってきた。
 私達は本当に、どんな場合にでも、与えられるままの生活で、自分を保護する事より他に出来ないのであろうか。
「虐げられているのは少数の者ばかりじゃないのだ。大部分の人間が、みんな虐げられながら惨めに生きているのだ。今はもう、何だって一番わるい状態になっているのだ。」
 深い溜息といっしょに、私はこんなことしか考えることはできなかった。幾度考えてみても同じことだった。
 けれど、私はこうして自分の考えを逐いまくられると、きまって夢想する他の世界があった。
 ほんの些細なことからでも考え出せば人間の生活の悉ゆる方面に力強く、根深く喰い込み枝葉を茂げらしている誤謬が、自分達の僅かな力で、どうあがいたところで、とても揺ぎもするものではないという絶望のドン底に突き落される。ではどうすればいいだろう? 私はそのたびに、自分の力の及ぶかぎり自分の生活を正しい方に向け正しい方に導こうと努力しているのだということに僅かに自分を慰めて、自分の小さな生活を保ってきた。しかし、第一に私は手近かな、家庭というもののために、不愉快な「忍従」のしつづけであった。種々な場合に、そんな時には何の価値もない些細な家の中の平和のために、そして自分がその家庭の侵入者であるがために、自分の正しい行為やいい分を、遠慮しなければならないことが多かった。その小さな一つ一つが、やがて全生活をうずめてしまう油断のならない一つ一つであることを知りながらでも、その妥協と譲歩はしなければならなかったのだ。そして、それが嵩じてくると、何もかも呪わしく、馬鹿らしく、焦立たしくなるのだった。
「こんなにも苦しんで、私は一体何をしているのだろう。余計な遠慮や気がねをしなければならないような狭い処で、折々思い出したように自分の気持を引ったててみるくらいのことしかできないなんて――」
 同じ事ならこんな誤謬にみちた生活にこびりついていなくたって、いっそもう、何も彼も投げすてて広い自由のための戦いの中に、飛び込んでゆきたいと思うのだった。そのムーブメントの中に飛び込んで行って、力一杯に手ごたえのある事をし
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