、二人は顔見合わせたが、思いがけない嘲りを含んだ態度を見せて、私の問に答えた。
「谷中村かね、はあ、あるにはあるけれど、沼の中だでね、道も何にもねえし――いる人も、いくらもねいだよ――」
あんな沼の中にとても行けるものかというように、てんから道など教えそうにもない。それでも最後に橋番に聞けという。舟橋を渡るとすぐ番小屋がある。三四人の男が呑気な顔をして往来する人の橋銭をとっている。私は橋銭を払ってからまた聞いた。
「谷中村ですか、ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向うが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね。」
一人の男がそういって教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるようにいった。
「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ。」
彼等は一度に顔見合わせて笑った。多分、私達二人が、気紛れな散歩にでも来たものと思ったのであろう。笑声を後にして歩き出した時、私は、この寒い日に、わざわざこうして用もない不案内な廃村を訪ねてゆく自分の酔狂な企てを振り返ってみると、今の橋番の言葉が、何か皮肉に聞こえて、苦笑しないではいられなかった。
一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。畑のまわりには低い雑木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かなけはいを感ずる。片側は、すぐ道に添うて河の流れになっているが、河の向う岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。その葦原もまた何処まで拡がっているのか解らない。しかし、左側の生々した畑地に慰さめられて、もうさはど遠くもあるまいと思いながら歩いていった。
「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?」
「変だねえ、もう大分来たんだが。」
「先刻の橋番の男は堤防にのぼるとすっかり見晴せますなんていってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?」
私と山岡がそういって立ち止まった時には、小高くなった畑地は何処か後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。行く手も、両側も、後も、森として人の気配らしいものもしない。
「橋の処からここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、――まあもう少し行ってみよう。」
山岡がそういって歩き出した。私は、通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。
ようやく、向うから来かかる人がある。待ちかまえていたように、私達はその人を捉えた。
「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、皆飛び飛びに離れていますからな、何という人をおたずねです?」
「Sという人ですが――」
「Sさん、ははあ、どうも私には分りませんが――」
その人は少し考えてからいった。
「家が分らないと、行けない処ですからな。何しろその、皆ひとかたまりになっていませんから――」
意外な事を聞いて当惑した。しかしとにかく、人家のある所まででも、行くだけ行ってみたい。
「まだ、余程ありましょうか?」
「さよう、大分ありますな。」
ちょうどその時私達の後から来かかった男に、その人はいきなり声をかけた。
「この方達が谷中へお出でなさるそうだがお前さんは知りませんか。」
その男はやはり、今までと同じように妙な顔付きをして、私達を見た後にいった。
「谷中へは、誰を尋ねてお出でなさるんです?」
「Sという人ですが――」
「ああ、そうですか、Sなら知っております。私も、すぐ傍を通ってゆきますから、ご案内しましょう。」
前の男にお礼をいって、私達は、その男と一緒になって歩き出した。男はガッシリした体に、細かい茶縞木綿の筒袖袢纏をきて、股引わらじがけという身軽な姿で、先にたって遠慮なく急ぎながら、折々振り返っては話しかける。
「谷中へは、何御用でお出でです?」
「別に用というわけではありませんが、じつはここに残っている人達がいよいよ今日限りで立ち退かされるという話を聞いたもんですから、どんな様子かと思って――」
「ははあ、今日かぎりで、そうですか、まあいつか一度は、どうせ逐い払われるには極まったことですからね。」
男はひどく冷淡な調子で云った。
「残っている人は実際のところどのくらいなものです?」
山岡は、男が大分谷中の様子を知っていそうなので、しきりに話しかけていた。
「さあ、しっかりしたところは分りませんが、十五六軒もありますか。皆んな飛び飛びに離れているので、よく分りません。Sの家がまあ土手から一番近い所にあるのです。その近くに、二三軒あって、後はずっと離れて
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