転機
伊藤野枝

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「けげん」に傍点]

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        一

 不案内な道を教えられるままに歩いて古河の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている道ばたで、子供を遊ばせている老婆に私はまた尋ねた。老婆はけげん[#「けげん」に傍点]な顔をして私達二人の容姿に目を留めながら、念を押すように、今私のいった谷中村という行く先きを聞き返しておいて、
「何んでも、その堤防を越して、河を渡ってゆくんだとかいいますけれどねえ。私もよくは知りませんから。」
 何んだか、はっきりしない答えに、当惑している私達が気の毒になったのか、老婆は自分で他の人にも聞いてくれたが、やはり答えは同じだった。しかし、とに角その堤防を越して行くのだということだけは分ったので、私達はその町の人家の屋根よりは遙かに高いくらいな堤防に上がった。
 やっと、のぼった私達の前に展かれた景色は、何という思いがけないものだったろう! 今、私達が立っている堤防は黄褐色の単調な色をもって、右へ左へと遠く延びていって、遂には何処まで延びているのか見定めもつかない。しかも堤防外のすべてのものは、それによって遮りつくされてただようように一二ケ所ずつ木の茂みが、低く暗緑の頭を出しているばかりである。堤防の内は一面に黄色な枯れ葦に領された広大な窪地であった。私達の正面は五六町を隔てた処に横たわっている古い堤防に遮られているが、右手の方に拡がったその窪地の面積は、数理的観念には極めて遠い私の頭では、ちょっとどのくらいというような見当はつかないけれど、何しろそれは驚くべき広大な地域を占めていた。こうして高い堤防の上に立つと、広い眼界がただもう一面に黄色なその窪地と空だけでいっぱいになっている。
 その思いがけない景色を前にして、私はこれが長い間――本当にそれは長い間だった――一度聞いてからは、ついに忘れることの出来なかった村の跡なのだろうと思った。窪地といってもこの新しい堤防さえのぞいてしまえば、この堤防の外の土地とは何の高低もない普通の平地だということや、窪地の中を真っすぐに一と筋向うの土手まで続いている広い路も、この堤防で遮られた、先刻の町の通りに続いていたものだということを考えあわせて見れば、どうもそうらしく思われもする。けれど、堤防の中の窪地に今もなお居残って住んでいるという、今私の尋ねていこうという人達は、この広い窪地の何処に住んでいるのであろう? 道は一と筋あるにはあるが、彼の土手の外に人家があるとは、聞いた話を信用すれば少しおかしい。
「ちょっとお伺いいたしますが、谷中村へ行くのには、この道をゆくのでしょうか?」
 ちょうどその窪地の中の道から、土手に上がってきた男を待って、私は聞いた。その男もまた、不思議そうに、私達を見上げ見下ろしながら、谷中村はもう十年も前から廃止になって沼になっているが、残っている家が少々はない事もないけれど、とても行ったところで分るまいといいながら、それでも、そこはこの土手のもう一つ向うになるのだから、土手の蔭の橋の傍で聞けと教えてくれた。けれど彼はなお、私達に、とても行ったところで仕方がないというような口吻で、残った人達を尋ねる事の困難を説明した。
 窪地の中の道の左右は、まばらに葦が生えてはいるが、それが普通の耕地であった事は一と目に肯かれる。細い畔道や、田の間の小溝が、ありしままの姿で残っている。しかし、この新らしい高い堤防が役立つ時には、それも新らしい一大貯水池[#「貯水池」は底本では「貯水地」]の水底に葬り去られてしまうのであろう。人々はそんなかかわりのないことは考えてもみないというような顔をして、坦々と踏みならされた道を歩いてゆく。
 土手の蔭は、教えられたとおりに河になっていて舟橋が架けられてあった。橋の手前に壊れかかったというよりは拾い集めた板切れで建てたような小屋がある。腐りかけたような蜜柑や、みじめな駄菓子などを並べたその店先きで、私はまた尋ねた。
 小屋の中には、七十にあまるかと思われるような、目も、鼻も、口も、その夥だしい皺の中に畳み込まれてしまったような、ひからびた老婆と、四十位の小造りな、貧しい姿をした女と二人いた。私はかねがね谷中の居残った人達が、だんだんに生計に苦しめられて、手当り次第な仕事につかまって暮らしているというようなことも聞いていたので、この二人がひょっとしてそうなのではあるまいかという想像と一緒に、何となくその襤褸にくるまって、煮しめたような手拭いに頭を包んだ二人の姿を哀れに見ながら、それならば、多分尋ねる道筋は、親切に教えて貰えるものだと期待した。しかし、谷中村と聞くと
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