、飛び飛びになっています。Sの母親と、私の母親が姉妹で、あの家とは極く近い親戚で――え、私ももとはやはり谷中の者です。Sも、どうもお百姓のくせに、百姓仕事をしませんで、始終何にもならんことに走りまわってばかりいて困ります。」
彼はそんなこともいった。若いSは谷中のために一生を捧げたT翁の亡き後は、その後継者のような位置になって、残留民の代表者になって、いろいろな交渉の任にあたっていた。Sにはそれは本当に一生懸命な仕事でなくてはならなかった。
「堤防を切られて水に浸っているのだといいますね。」
「なあに、家のある処はみんな地面がずっと他よりは高くなっていますから、少々の水なら決して浸るような事はありませんよ。Sの家の地面なんかは、他の家から見るとまた一段と高くなっていますから、他は少々浸っても大丈夫なくらいです。お出でになれば分ります。」
彼はさも、何でもないことを大げさに信じている私達を笑うように、また私達をそう信じさせる村民に反感をもってでもいるように、苦い顔をしていい切ると、またスタスタ先になって歩き出した。
いつのまにか、行く手に横たわった長い堤防に私達は近づいていた。
「あ、あの堤防だ、橋番の奴、すぐそこのような事をいったが、ずいぶんあるね。でもよかった、こういう道じゃ、うまくあんな男にぶつかったからいいようなものの、それでないと困るね。」
「でも、よくうまく知った人に遇ったものね、本当に助かったわ。」
二人はやっと思いがけない案内者ができたのに安心して、少しおくれて歩きながら、そんな話をした。
「これがずっと元の谷中です。」
土手に上がった時、男はそこに立ち止まって、前に拡がった沼地を指していった。
二
それは何という荒涼とした景色だったろう! 遙かな地平の果てに、雪をいただいた一脈の山々がちぢこまって見える他は、目を遮るものとては何物もない、ただ一面の茫漠とした沼地であった。重く濁った空は、その広い沼地の端から端へと同じ広さで低くのしかかり、沼の全面は枯れすがれて生気を失った葦で覆われて、冷たく鬱した空気が鈍くその上を動いていた。右を向いても左を向いても、同じような葦の黄褐色が目も遙かに続いているばかり、うねり曲って左右に続く堤防の上の道さえ、どこまで延びているのか、遂にはやはり同じ黄褐色の中に見分けもつかなくなってしまう。振り返れば来る来る歩いて来た道も、堤から一二丁の間白く見えただけで、ひと曲りしてそれも丈の高い葦の間にかくされている。その道に沿うてただ一叢二叢僅かに聳えた木立が、そこのみが人里近いことを思わす[#「思わす」は底本では「思わず」]だけで、どこをどう見ても、底寒い死気が八方から迫ってくるような、引き入れられるような、陰気な心持を誘われるのであった。
古河の町をはずれて、高い堤防の上から谷中村かと思われる沼地の中の道に踏み入ろうとして私はかつて人の話に聞いて勝手に想像していた谷中村というものとは、あまりの相違にすべての自分の想像から持っている期待の取捨に迷いながら、やっとこの土手まで来たのであった。先刻道を聞いた時、橋番がいっていたように、なるほど廃村谷中の跡はここから一と目に見渡せるのであった。しかも見渡した景色は、瞬間に、私の及びもつかない想像をも期待をも押し退けた。それはここまでのみちすがらにさんざん私を悩ました、あの人気のない、落莫とした、取りつき端のないような景色よりも、更に思いがけないものだった。
「まあひどい!」
そういったなりで、後の言葉がつづかなかった。ひどい! という言葉も、私が今一度に感じた複雑な感じのほんの隅っこの切れっぱしにすぎないとしか思えないような、不満な思いがするのであった。冬ではあるが、それでも、こうして立っている足元から前に拡がったこの広大な地に、目の届く処にせめて、一本の生々とした木なり草なり生えてでもいることか、ただもう生気を失って風にもまれる枯れ葦ばかり、虫一匹生きていそうなけはいさえもない。ましてこの沼地のどこに人が住んでいるのだなどと思えよう?
案内役になった連れの男はさっさと歩いていく。どこをどう行くのかも分らずに、ついていくのに不安を感じては私は聞いた。
「谷中の人達の住んでいる処まではまだよほどあるのですか?」
「そうですね、この土手をずっとゆくのです。一里か一里半もありますかね。」
道は幅も広く平らだった。しかし、この道をもう一里半も歩かなければならないということは私にはかなり思いがけもないつらいことだった。ことに帰りもあるのに、この人里離れた処では乗物などの便宜のないというわかり切ったことがむやみに心細くなりだした。それでもこの雪もよいの寒空に自分から進んで、山岡までも引っぱって出かけて来ておいて、まさか
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