ゆくと蘆の間から一人の百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。挨拶を交わすと、それはS青年の兄にあたる、この家の主人であった。素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。主人は気の毒そうに私達の裸足を見ながら、S青年が昨日から留守であるという。家の方に歩いて行く後から、山岡は今日訪ねてきた訳を話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。
「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから、――実は弟もそれで出ておるような訳でございますが。」
 彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。
「私共がここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、何分長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私共少数の力ではかなわないのです。しかし、そういってここを立ち退いては、もう私共は全くどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。何んだか慾にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。此処にまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますような訳で、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております。」
「もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分のびますかな。」
「そうです。まあ一と月や二た月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし。」
「そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどの辺です、その方の心配はないのですか?」
「今、丁度三ケ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水がはいってきて、麦も一度播いた
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