のを、また播き直している処です。」
堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいう処によると二千町歩以上はあるとのことであった。彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分達の生活について話しつづけた。しかし彼の話には自分達がこうした境遇におかれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。彼はすべての点で自分達の置かれている境遇をよく知りつくしていた。彼は本当にしっかりしたあきらめと、決心の上に立って、これからの自分の生活をできるだけよくしようとする考えを持っているらしかった。こうしてわざわざ遠く訪ねてきた私達に対しても、彼は簡単に、取りようによっては反感を持ってでもいるような冷淡さで挨拶をしただけで、よく好意を運ぶものに対して見せたがる、ことさららしい感謝や、その他女々しい感情は少しも見せなかった。私達がしばらく話をしている間に、そこに来合わせた一人の百姓は、やはりここに居残った一人であった。彼は主人から私達に紹介されると幾度も私達の前に頭を下げて、こうして見舞った好意に対する感謝の言葉を連ねるのであった。その男は、五十を過ぎたかと思われるような人の好い顔に、意地も張りもなくしたような皺がいっぱいたたまれていた。
主人とその男と、山岡の間の話を聞きながら、私はあとからあとからと種々に尋ねてみたいと思うことを考え出しながら、一方にはまたもう何にも聞くには及ばないような気がして、どっちともつかない自分の心に焦れながら、気味わるく足にぬられた泥が、少しずつかわいてゆくのをこすり合わしていた。
風が出てきた。広い蘆の茂みのおもてを、波のように揺り動かして吹き渡る。日暮近くなった空は、だんだんに暗く曇って、寒さは骨までも滲み透るように身内に迫ってくる。
「せっかくお出でくださいましたのにあいにく留守で――」
気の毒そうにいう主人の声をあとに私達は帰りかけた。
「やはりその道を歩くより他に、道はないのでしょうか。」
私は来がけに歩いてきた道を指さして、分り切ったことを未練らしく聞いた。またその難儀な道を帰らねばならないことが、私にはただもう辛くてたまらなかった。
「そうだね、やはりその道が一番楽でしょう。」
といわれて、また前よりはいっそう冷たく感ずる沼の水の中に足を入れた。
ようようのことで土手の下まで帰って来はしたものの、足を洗う場所がない。
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