てしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、私はもう半泣きになりながら、山岡に励まされて僅かの処を長いことかかってようように水のない処まで来ると、そこからはSの家の前までは、細い道がずっと通っていた。
八
木立の中の屋敷はかなりな広さをもっている。一段高くなった隅に住居らしい一棟と、物置小屋らしい一棟とがそれより一段低く並んでいる。前は広い菜圃になっている。畑のまわりを鶏が歩きまわっている。他には人影も何にもない。取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいていった。正面に向いた家の戸が半分しめられて、家の中にも誰もいないらしい。
「御免!」
幾度も声高にいって見たが何の応えもない。住居といっても、傍の物置きと何の変りもない。正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二三枚しまるようになった処が開いている。他は三方とも板で囲われている。覗いて見ると、家の奥行きは三間とはない。そこの低い床の上に五六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。もちろん押入れもなければ戸棚もない。夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上りかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャにおかれてある。土間の大部分は大きな機で占められている。家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。けれどもその狭い畳の上には、他のものとは全くふつりあいな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。机のすぐ上の壁には、T翁の写真が一つかかっている。人気のない家の中には、火の気もないらしかった。私達二人は寒さにふるえながら、着物の裾を端折ったまま、戸のあいたままになっている敷居に腰を下ろした。
腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩きまわっている。木立で囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立の外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。
二人が腰をかけている処から、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向って呼ぶ声がする。返事をしながら、其方の方に歩いて
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