ついそこに木立は見えているのだが、うっかり歩けば、どんな深い泥におちこむかもしれないし、私たちは一と足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿をさがし出した。そこは一反歩くらいな広い畑で、四五人の人が麦を播いていたのだ。私達がS青年の家への道を聞くと、その人達は不思議そうに私達二人を見ながら、この畑の向うの隅からゆく道があるから、この畑を通ってゆけといってくれた。けれど私達の立っている処と、その畑の間には小さな流れがあった。私には到底それが渡れそうにもないので、当惑しきっているのを見ると、間近にいた年を老った男は、すぐに私に背を貸して渡してくれた。私達はお礼をいって、その畑を通りぬけて、再びまた沼地にはいった。畑に立っていた二人の若い女が、私の姿をじっと見ていた。私はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。柔らかに私の体を包んでいる袖の長い着物が、その時ほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。甲斐々々しい女達の目には、小さな流れ一つにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう? だが一体どうしたことだろう? まさかにあの新聞の記事があとかたもない嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人達が、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう? やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。私はひとりでそんなことを考えながら、山岡には一二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までも来る蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、一と足ずつにようやくに運んでゆくのであった。
「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね。」
 山岡は後をふり向きながらいった。
「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私達ならすぐ病気になりますね。よくまあこんな処に十年も我慢していられること。」
 といっているうちにも、一と足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も私は立ち止まった。少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上辷りのする泥の中にふみしめる力もない。下半身から伝わる寒気に体中の血は凍っ
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