ると、沼の中には道らしいものは何にもない。蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のように所々高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。
「あら、道がないじゃありませんか。こんな処から行けやしないでしょう?」
「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?」
「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか。」
「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか。」
「だって、いくら何んだって道がないはずはないわ。」
「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?」
「向うの方にあるかもしれないわ。」
 私は少し向うの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっている処を指しながらいった。
「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか、ぐずぐずいってると置いてくよ。ぜいたくいわないで裸足になってお出で。」
「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ。」
「ここでそんなこといったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?」
 山岡は、そんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋をぬいで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。私はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人達が歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるに違いないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういう処を毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。それでも山岡の最後の言葉には、私はまたしても自分を省みなければならなかった。私はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って山岡の後から沼の中にはいった。冷たい泥が足の裏にふれたかと思うと、ぬるぬると、何ともいえぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首までかくしてしまった。そのつめたさ! 体中の血が一度に凍えてしまう程だ。二三間は勢いよく先に歩いていった山岡も、後から来る私をふり返った時には、さすがに冷たい泥水の中に行きなやんでいた。
「どう行ったらいいかなあ。」
「そうね、うっかり歩くとひどい目に会いますからね。」
 
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