ない……。私は本当にだまりこくって、独りきりで考えているより仕方がなかった。しかし、とにかく、私はさんざん考えた末に、二日ばかりたってから、思い切って山岡の処に初めての手紙を書いた。もちろん、谷中の話も、聞いてからの気持を順序もなく書いたものだった。私は、もしそれによって彼のような立場にいる人の考えをさぐることができればとも思い、また、それによって、自分の態度に、気持に、ある決定を与えることができればいいと思ったのであった。
 しかし私は彼からも、何ものをも受取ることができなかった。彼もまた、私の世間見ずな幼稚な感激が、きっと取り上げる何の価値もないものとして忘れ去ったのであろうと思うと、何となく面映ゆさと、軽い屈辱に似たものを感ずるのであった。同時に出来るだけ美しく見ていたその人の、強い意志の下にかくれた情緒に裏切られたような腹立たしさを覚えるのであった。私はもうこのことについては、誰にもいっさい話すまいと固く断念した。山岡にも其後幾度も遇いながら、それについては素知らぬ顔で通した。

 二年後に、私とTとは、種々な事情から一緒に暮らすことはできないようにまで離れてきた。私はいったん家を出て、それから静かに、自分一人の「生き甲斐」ある仕事を本当にきめて勉強しようと思った。私はあんまり若くて、あがきのとれない生活の深味にはいったことを、本当に後悔していた。
 けれど、事は計画どおりにすらすらとは、大抵の場合運ばない。もうその話にある決定がついて後に、山岡と私は初めて二人きりで会う機会を与えられた。そして、それがすべての場面を一変した。順当に受け容れられていたことが、すべて曲解に裏返された。私はその曲解をいい解くすべもすべての疑念を去らせる方法も知っていた。しかし、すべては世間体を取り繕う、利巧な人間の用いるポリシイとして、知っているまでだ。私はたとえばどんなに罵られようが嘲られようが、まっすぐに、彼等の矢面に平気でたってみせる。彼等がどんなに欺かれやすい馬鹿の集団かということを知っていても、私はそれに乗ずるような卑怯は断じてしない。第一に自分に対して恥ずかしい。また今度の場合、そんなことをして山岡にその卑劣さを見せるのはなおいやだ。どうなってもいい。私はやはり正しく生きんがために、あてにならない多数の世間の人間の厚意よりは、山岡ひとりをとる。それが私としては本当だ。
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