あるかも知れない。然しそれは少なくとも彼の心血が悉く注ぎ尽された後である。
今日の芸術家はかの古《いにしえ》のブロメシヤスの如く絶へず経済的必迫の巖上に縛せらるるが故に自由なる創造に従事することが出来ないのであると一般に云はれてゐる。然しながらそれは孰《いず》れの時代を問はず常に真の芸術家に伴つてゐたことなのである。かのミケルアンヂエロすら保護者《パトロン》に依立してゐた。唯だ当時の芸術鑑識家は現代の盲目なる群衆とは遙かにその趣きを異にしてゐたのである。彼等は真に芸術の殿堂に参することを光栄と感じてゐた人々である。
現代の芸術保護者は弗《ダラア》といふ唯一つの標準、価値を知つてゐる。彼は傑作の真質に関して全く没交渉である。彼は芸術品のために支払はるる金の価にのみ重きを置く者である。かくしてミルポウの『商売は商売だ』中の財政家はある不明な画を指して「如何《どう》ですこの傑作は、なんしろ五万フランですからな――」と云つた。現代成金の口吻そのままである。芸術品のために払はるる無意味の金嵩《きんがさ》は彼等の貧弱なる趣味の埋合せをしなければならない。
思想の独立といふことが又社会に於て最
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