明である間は生命、真理、正義の芽を保存してゐた。然しながら多数者がそれを捉へた瞬間、その偉大なる主義は一種の符諜となり、到る処に苦痛と災厄とを伝播する血と火の先駆者となつた。カルヴイン、ルウテル等の巨人が羅馬《ローマ》の万能に対する攻撃は夜の暗黒に輝く旭日の如くであつた。然しながらルウテルとカルヴインが政治家と変じ貴族並びに群集精神に呼応し初むると同時に彼等は改革の本旨を危地に陥れた。彼等は多数者の味方を得て遂に成功した。けれどもその多数者はかの旧教の怪物《モンスタア》と同じく理想と理性に対する残酷な迫害者であつた。群集の輿論の前に低頭せざる少数異端者は禍なるかな。不断の熱誠と忍耐と犠牲によつて人心は遂に宗教的妄想より覚醒し、初めて自由なることを得るのである。少数者は新なる勝利の前途に猛進する。然るに年と共に虚偽に変りゆく真理を背負ふ多数者は疲れたる歩みを常にひきづツてゐるのである。
 王者及び圧制者の権力に反抗して一歩一歩自己勝算の道を踏みしめつゝ悪戦するジヨン・ボール、ワツト・テイラア、テルの如き巨人等が沢山出て来なければ人類は永久に絶対的奴隷状態を脱することは至難であらう。個人的先駆者の力によらなければかの仏蘭西《フランス》革命の巨濤も遂に社会をその根底から震憾させることは出来なかつたであらう。大事は常に小事によつて先立たれてゐる。かくてカミイル・デスモリンの熱烈なる雄弁はバスチル牢獄と苛酷なる政治とあらゆる伝習とを顛覆するエリコの前の喇叭《ラッパ》であつた。
 如何なる時代に於ても少数者は常に偉大なる思想と自由の旗幟《きし》を真先に翻がへすのである。鉛の如く縛されたる群衆は何事をもなし得ない。この事実は露西亜《ロシア》に於て最も力強く証明せられた。数千の生命は血政のために犠牲となつた。しかもかの玉座の怪物は依然として滅ぼされない。最深最善の情緒が鉄の軛《くびき》の下に呻吟しつつある時、如何して文学、教養、思想の発達進歩を見ることが出来やう? かの惰眠を貪る不活溌愚昧の露西亜農民は言語に絶する悲惨、闘争、犠牲の一世紀を経たる後もなほ『白き手の人々』を絞殺せる縄は幸運の御咒《おまじない》になると信じてゐるのである。
 亜米利加に於ける自由獲得の歴史に於ても多数者は常にその障碍《しょうがい》である。今日に於てもなほジヤフアソン、パトリツク・ヘンリイ、トーマス・ペイン等の思想は後世のために拒否せられ、或は売られてゐる。群衆にとつてかかる思想は無用なのである。リンコルンの偉大と勇気とは当時の背景を創造した人々に於ては全く忘れられてゐる。黒人の真の保護者はボストン、ロイド・ガリゾン、ウエンデル・フイリツプス、トロウ、マアガレツト・フラア、セオドル・パアカア等の少数者によつて代表せられた。その人々の不屈なる勇気は巨人ジヨン・ブラウンとなつて現はれた。彼等の不撓なる熱心と雄弁と忍耐とは遂に南方領主の要塞を顛覆した。リンコルン及び彼の徒は奴隷廃止が実行となつて現はれ、万人によつて承認せられた時、始て運動に従事したのである。
 約五十年以前、彗星の如き思想は世界の社会的地平線上に現出した、其思想は全世界の圧制者を悉く戦慄せしめた。遠大にして革命的な思想は又万人の歓喜であり希望であつた。パイオニヤアは彼等の進みゆく道の如何に険悪であるかを自覚してゐた。あらゆる迫害と反抗と艱難と痛苦とが彼等を待つてゐるといふ事を知りぬいてゐた。然しながら、彼等は自若として彼等の信ずる道に進み、進んだ。今や、其思想は全世界のスローガンとなつた。今日に於て人は皆な一個の社会主義者である。富豪とその哀れむべき犠牲者と、律法と威権の維持者と不幸なる犯罪者と、自由思想家と虚偽なる宗教伝道者と、流行界にときめく淑女と襤褸《ぼろ》をまとふ工女と皆な等しく社会主義者である。然るにかの五十年以前の真理は全く虚偽と変つてしまつた。当時の盛なる青春の意気と勢力と革命的理想とは悉く萎縮し去つたのである。何故にかくの如き現象が生じたのであらう? かの思想は今は美しき幻影ではなく、多数者の意志を基礎として行はるる『実際的計画』と変じたからである。政治権謀はとこしへに虐げられたる哀れな群集の称讚を歌つてゐる。
 私は全ての選挙者と共に如何に群衆が常に簒奪《さんだつ》せられ、利用せられつつあるかを知つてゐる。此恐るべき状態に対して当然責任を有すべきはかの寄生虫ばかりでなく、群衆それ自身であると主張したい。群衆は常にその主人に屈従し、鞭韃せらるるを好む。而も一度、朽廃せる制度と資本家の神聖に対する反抗の声の挙げらるる時、「十字架につけよ!」と真先に叫ぶ者は実に彼等である。群衆にして兵士たり、政治家たり、獄吏たり、死刑執行者たるの意志なくんば、如何にしてかの当局者と私有財産の存在を維持すること
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