と敏捷な挙動は最大の利器であった。登志子は叔父のそれらの特点をよく知りそしてそれを厭いながら、知らぬ間に彼女自身もいつかその叔父の周到に届いた誤魔化しに乗せられてその利器に触れたのだ。
「何て馬鹿らしい事だろう? 私はまあ叔父等の安価な生活のたしにされたのだ――」
またじりじりしだした。――嫌な嫌なその叔父は、私らより十五分も前に長崎から博多について私等をそこで待っている――登志子は眉をあげてホッと息をした。それ以上考えることは彼女にはとても今の場合出来なかった。しかも汽車は走っていく。
嫌な方に嫌な方にとずるずる引きずられていく――登志子はもう胸元にこみ上げてくる何物かがグッと上がると、すぐにもそれが頭をつきぬけてすっとこの苦しい自分からはなれていきそうで、それがまた心地よさそうにも思われながら、一方にはまた激しい惑乱に堕ちることを恐れて、グッと下腹に圧しつけながら目をつぶった。
いつもはこの汽車の中で聞く言葉の訛りがいかにもなつかしく快よく響くのだが、今日はそれどころではない。彼女は連れのまき子等が何を話しているか何をしているか、そんな事に注意する余裕はなかった。彼女は顔を蒼くして窓にかたくなって凭っていた。
「あ着いた着いたもう箱崎だ、あと吉塚、博多だわね」
まき子は勢いよく立って荷物の始末をしはじめた。登志子は今さらのようにはっとした。なるべく避けよう避けようとした時がもう目前にせまった。
「かまうものか仕方がない、なるようにしかならないのだ。行きづまる所まで――」
何故かしらこみ上げてくる涙をグッと呑み込んで、勢いよく彼女はたち上がった。汽車は見覚えのある松原を走っている。松の上からは日蓮の首がニュッと出ている。
「来た――博多だ――遂に、遂に――」
地響をさせて入ってきた汽車はプラットホームにそって長々と着いた。ピタリと汽車の動揺が止むと、激しい混乱が登志子の頭を瞬間に通りすぎた。
まき子が大さわぎして降りる後から登志子は静かに下車した。降りると少し離れた向側の人と人との間にチラと覚えのある叔父の外套の袖が見えて、やがて此方へ急いで来る。続いて来る若い男の顔を見ると登志子は我知らずブルブルっと震えた。
「あの男が来ている、あの男が――ああいやだ! いやだ!」
彼女はクルリと後を向いて、左のあらぬ方を向いた。そこにはまたいま自分達の乗ってきた汽車の窓に向って大勢の女学生に囲まれた背の高い男の姿を見出した。登志子は瞳を凝らしてその後姿を見つめていた。
「登志さん」
はずんだ従姉の声に我に返って手持無沙汰に立っている――永田――夫――に目礼して嫌な叔父に挨拶をすました。傲然とかまえた叔父の顔を見、傍におとなし気な永田を見出すと、彼女は口惜しさに胸がいっぱいになるのだった。
「うれしかるべき帰省――それがかくも自分に苦しいものとなったのもみんな叔父のためなのだ。叔父がこうしたのだ。見もしらぬこの永田が私のすべての自由を握るのか――私を――私を――誰が許した。誰が許した。私はこの尊い自身をいともかるはずみにあんな見もしらぬ男の前に投げ出したことはない。私は自身をそれほど安価にみくびってはいない私は、私は――」
登志子は押し上げて来る歔欷をのんでじっと突いた洋傘の先のあたりに目を落した。熱い涙がポツリポツリと眼鏡にあたってはプラットホームの三和土の上に落ちた。
「お登志さん、行きましょう」
と忘れたような安子の声を不意に聞いたときにはまき子は父と並んで二三間先を階段の方に歩いていた。
登志子が階段を上ろうとすると、後から急ぎ足に来て声掛けた男がある、さっきの田島だ。
「登志さんでしょう、今着いたの、御卒業でおめでとう」
今ここで思いがけない田島にこうした辞を述べられようとは予期しなかった。田島は去年高師を卒業してここの師範に赴任した。その人がまだ高師にいた間、登志子は兄さん兄さんと彼を何かにつけて頼りにしていた。たまには登志子の所を訪ねてきては後れた英語や数学を教えてくれたりした。しかし彼が帰省して女子師範に出るようになってからは、便りもとかく田島の方から不精にしていつかとだえ勝ちになってしまった。その登志子がようやく卒業して帰ってきたのを知らずに、この停車場で偶然に会ったのだ。偶然とはいいながら今彼に会ったことは登志子は何よりもうれしかった。何となく話したら自分の方に同情してくれる人だという気がする。しかし登志子は何もいうことが出来なかった。何かいったらいっぱいにたまった涙が溢れそうだ。安子が見ている。田島は何もしらない。それに田島の生徒は皆、自分等とはずっと飛びはなれた風姿をした女学生らしい登志子や前の方に行くまき子を、目をみはって眺めながらぞろぞろ歩いていく。登志子は何といっていいか分らない。
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