しかしだまっている訳にはいかない。ようやくしぼり出したような苦しい笑を報いながら、
「ええありがとうやっとどうにか――」と小さな声でいって下向いた。
「どうかしたの、真青な顔だ、気分でも悪い?」
「え、少し疲れたからでしょう」
「そう、前のはまき子さんと叔父さんだろう」
「ええ」
階段を降りて入口を出ようとする所で叔父と田島は挨拶を交わした。田島は改めて卒業の祝辞を叔父にいった。叔父の顔はいかにも満足気に輝いた。
「え、まあどうにかつまづきもなくおかげさまで卒業までに漕ぎつけました。いやしかしどうもずいぶん骨が折れましたよ――」
「そうでしょう、しかしもう大丈夫ですよ御安心が出来ますね、本当に結構でした」
と傍のまき子の方に顔を向けた。叔父は忙しそうにそわそわしながら手荷物の世話などしはじめた。
登志子は呆然とそこに立っていた。永田に言葉をかけられることが恐ろしくてたまらなかった。なるべく彼と面を合わせないように合わせないようにと注意しながら立っていた。田島にだけは何かいいたいことがあるように思われていらいらした。いくども二人は顔見合わせた。そのたびにお互いに何かいいたげな顔をしては黙っていた。登志子はいよいよたまらなくなってしまった。こみ上げてくる涙を呑み込み呑み込み洋傘の柄をしっかり握って、どうかして自分ひとりきりになりたいと願った。そんなことの出来ようはずがないのが分っていながらも。――
暇取るとみて田島は、そのうちに宅に来てくれといって帰ってしまった。いよいよそこには安子と永田と登志子になった。彼女は永田の声を聞くことが体が震えるほど嫌だった。なるべく彼と口きかないように口きかないようにと避けて見たけれど、とうとう機会が来てしまった。せめて安子とでも何かいっていたいのだけれど、安子との話にきっと永田も仲間入りするだろうと思うとまたいやになってきて、どうしても口が開かない。三人ともだまってそこに立っていた。登志子にはその沈黙が苦しく気味悪くてたまらない。その沈黙の破れるときが恐ろしくてたまらない。けれどそれをどうすることも出来ないのだ。はやくまき子でも来てくれればいいと思ってはそこらを見まわした。まき子はそこらに見えなかった。
「ずいぶんお疲れになったでしょう」
登志子はハッとした。しかしすぐ後から気軽な安子の返事が聞こえたので、自分ではなかったと思うとホッとした。
ちょうどそのとき叔父が手荷物の始末をすましてそこに来た。後からまき子も来た。登志子は息がつけると思った。しかしどうしても後かれはやかれあの男と口をきかなければならないと思うと、なんだか体のアガキがとれないような気がした。その上に、もう十日か二十日もしたら、どうしてもあの男の家に行って、あの男と一緒に生活しなければならない――登志子にはそんな不快なことがどうしても出来そうになかった。
「なぜ帰って来たろう」
彼の女はつづけざまにそればかりを心で繰り返した。
登志子やまき子が帰っていく所は停車場から三里余りもあった。途中でも彼女は、身悶えしたいほど不快な遣り場のないおびえたような気持ちに悩まされ続けた。自分のその心持を覚られたくはなかったけれども、まき子がそわそわ嬉しそうな様子をしながら浮っ調子で話しているのを見ると、まるきり知らないではないのにもう少し自分の今の気持に同情があってもよさそうなものだ、注意してくれてもよさそうなものだという愚痴な、不平な心も起こして見たりした。
まき子の家に皆荷物をおろして、ちょっと立寄ったまま、登志子は松原つづきの町の家の方へ歩いていった。安子はまき子の家に泊ることになったので登志子と永田とが一緒に帰るのだ。挨拶をしてまき子の家の門口を出るや否や登志子は、後もふりむかずに出来るだけ大いそぎに袴の裾を蹴って歩いた。彼女は永田が彼女の態度に不快を感じているということは充分に承知していた。しかし身震いの出るほどいやなもの声を聞くのもいやだった。肩をならべて歩くことなんかとても出来ない。登志子はひたいそぎにいそいだ。それでもおとなしい永田はてくてく彼女の後からついてきた。登志子はもうなるべく追いつかれないように懸命になって急いだ。永田はとうとうこらえきれずに、
「登志さんは馬鹿に足が早いんだね」といった。登志子は返事することも出来なかった。
家では祖母が出たりはいったりして彼女を待っていた。駈け込むように家にはいると、そこに母や祖母などのなつかし気な笑顔が並んで彼女を迎えた。一家中の温い息が登志子の身辺に集まって、彼女のはりつめた心がようようにほぐれかけた。しかしそこにまだ永田がいると思うと、泣きたくなった。いろいろな皆の言葉もすこしも耳には入らない。
「私大変疲れていますから夜になるまで少し寝ますよ」
わがままらしく
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