。おなじつづいた空の下でおなじ空気を吸っていて――それでもう駄目だ。彼女はボーッとしてしまった。眼がクラクラっとした。
場内が何となくざわめいてきて、身つくろいしたり、落ちつかないような風で改札口の方へのぞきに行ったりする人がたくさんある。
「もうあと十五分よ、登志さん」
と声かけられてあわてて立ち上がった。しかしまだ十五分だと思うと拍子ぬけがしたようだ。
フトそこらの人々を見ると登志子は急に何ともいえない哀しい心細い気がしだした。登志子はこの旅行の途中大阪で連れをはなれて、それから四国にいる、彼女のためになってくれる人を頼って隠れるつもりでいたのだ。それを思い出すと不案内の土地の停車場でまごついている心細い自分を、その時の自分の心持をこの停車場のどこかに見出した。
彼女の心はまた沈んでいった。彼女の考えていることが行きづまるところはやはりどうしても「駄目」と投げ出さなければならなかった。そうした言葉がふとしたはずみに大きな吐息に表われた。はっとした彼女は、つと立ってしまった。いつの間にかすっかり自分の気持に釣込まれて、自分に少しの同情もない何にもしらないまき子や、ことに自分とはほとんど無関係な安子の前で彼女等の眼をみはらせるようなかるはずみらしいことをした事が何とはなしに自分に対して忌々しくなってきて、そのまま無茶苦茶に歩いて出口の方へ行った。車寄のすぐ左の赤いポストが登志子の眼につくと、彼女は思い出したように引き返して袋の中から葉書と鉛筆を出した。そしてまき子のたっている反対の方をむいて葉書を顔で覆うようにして男の居所と名前を手早く書きつけて裏返した。何を書こう? 何にも書けない。彼女の目からは熱い涙が溢れ出た。
「ようやくここまで着きました――」書いていくうちに眼鏡が曇って見えなくなった。書けない。早く書いてしまおうとしてイライラして後をふり返るとたんに、
「改札はじめてよ早く行きましょう」と急かれる。後の五六字はほとんど無意識に書いた。
汽車に乗ってからも動き出してからも登志子は右側の窓の処に坐って外の方をむいたっきりに固くなっていた。汽車が走り始めてからは彼女は何を考えることも出来なかった。頭はほとんど働きを止めてしまった。固くなってしまったような、からっぽなような登志子自身すらどうなのか分らなくなってしまった。
安子は登志子のもった雑誌を解りもしない癖に広げて退屈しのぎに読んでいる。まき子はただもう四五年ぶりにでも吾家に帰っていく子供のように燥いでいるのだ。登志子は時々その声を聞いては、自分とまき子をくらべてみた。
まき子は登志子よりは二つ年上の二十歳だ。それでも父に甘やかされてわがままに育った彼女は、一人前の女として物を考えてみることなんかまるでなかった。登志子自身に比べてもずっと幼稚なものにしか思えなかった。登志子にはまき子の考えたりしたりすることが見ていられないほど焦れったかった。朝夕同じ室にいて、同じ学校の同じクラスの同じ机の前に坐っていて、まき子のやることを一つ残らず見ている登志子はこれが自分よりも二つ年上の従姉といわれる人かと情ない気がした。そしては、心の中でまき子を軽蔑しきっているのだ。従姉ばかりではなくその父――登志子のためには叔父――をも彼女は少なからず軽蔑していた。彼女ははやくから叔父や叔母の自分とまき子に対する仕打ちを批評的な眼で眺めていた。彼女の慧い眼は、叔父のまき子に対する本能的なほとんど盲目的に近い愛と、登志子に対して厳格な監督者である威厳を示そうとするその二つのものが、登志子の目には始終極端にそぐわぬものになって極めて不自然に滑稽に見えた。彼女はひとりでその叔父の真面目くさった、道学者めいた事を口にするのを見ては心の中で嘲笑っていた。叔父や叔母のいう事に一としてそれらしい権威を含んだものはなかった。彼女には馬鹿にしきった人にいろいろな事を話したり聞いたりする勇気はなかった。何といわれても聞かれても彼女は黙っていた。
「今に――」と彼女はいつも思った。
「今に――自分で自分の生活が出来るようになれば私は黙ってやしない。私は大きな声で自分がいま黙って軽蔑している叔父等の生活を罵ってやる嘲笑ってやる。私は私で生活が出来るようになりさえすればあんな偽善はやらない。少なくともあんな卑劣な根性は自分は持ってはいない。――」
いつも彼女はこんな事ばかり考えていた。そうして叔父と声を大きくして争う日を待ちかまえていた。
いつ知らず――しかし登志子は叔父の狡滑な手にかかって尊い自己を彼の生活の犠牲に葬られさろうとしていた。
世の中は幼稚な単純な登志子の目に映りまた考える程正直なものでも真面目なものでもなかった。生活ということ――ことに実生活を豊かにする事のためには、悪がしこい叔父の智慧
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