ある男の堕落
伊藤野枝

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尾《つ》くのは

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)労働運動|面《づら》も

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「コナ」に傍点]
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        一

 私がYを初めて見たのは、たしか米騒動のあとでか、まだその騒ぎの済まないうちか、よくは覚えていませんが、なにしろその時分に仲間の家で開かれていた集会の席ででした。その時の印象は、ただ、何となく、今まで集まってきた人達の話しぶりとは一種の違った無遠慮さで、自分が見た騒動の話をしていましたのと、その立ち上がって帰る時に見た、お尻の処にダラリと不恰好にいかにも間のぬけたようにブラ下げた、田舎々々した白縮緬の兵児帯とが私の頭に残っていました。彼はまだその時までは、新宿辺で鍛冶屋の職人をしていたのです。
 彼が、しげしげと私の家に来るようになったのは、私共が、田端で火事に焼け出されて、滝野川の高台の家に越してからでした。
 それ程深い交渉がなく、そして彼が幾分か遠慮している間は、私もこの珍らしい、無学な、そしてそのわりにはなかなか物解りもよさそうな労働者を、興味深く眺めておりました。同志の間にも、彼の評判は非常によいのでした。が、やがて、彼がだんだんに無遠慮のハメをはずすようになってきた頃から、私は何となく、Yのすべての行為のどこかに、少しずつの誇張が伴い出してきたのを見のがすことができませんでした。
 無遠慮は、むしろ私共が、私共の家に来る人々には望むのでしたが、Yの無遠慮には、何となく私の眉をひそめさす、いやな誇張がありました。
 はじめのうち、私はYの行為に眉をひそめずにはいられない自分の心持ちを振り返って、「これは、私の方が無理なのだろうか」と思ってみました。けれども、私はどうしてもYの行為を心から許す気にはなれませんでした。
「Yの無遠慮もいいけれど、この頃のようだと本当に閉口しますわ。」
 私はよくOに向ってこぼしました。
「どうして?」
「どうしてって、火鉢の中にペッペッと唾を吐いたり、ワザと泥足で縁側を歩いたり、そういう意固地な真似ばかりするんですもの。くだらないことだから気にしずにいようと思うのですけれど、あの人のやり方はどこか不自然な処があっていやですもの。無邪気でやるのなら、私そんなに気になりはしないと思いますわ。」
「うん、まあそんな処もあるね。だが、他の先生とちがって、Yは僕等のこんな生活でも時々はやはり癪に障るんだよ。やっぱり階級的反感さ。まあできるだけそんなことは気にしないことだね。」
「ええ、気にしたって仕様はありませんけれどね。でも、時々は本当に腹が立ちますよ。癪に障るっていっても、あの人だって、ここに来てずいぶんいい気持そうな顔をしているんじゃありませんか。」
 私は折々Yが、明るい湯殿の中で大きな声で流行歌などを歌いながらはいって、湯から上がると二階の縁側の籐椅子の上に寝ころんで、とろけそうな顔をして日向ぼっこをしている姿などを思い出しながらいいました。
「無邪気な、いい男なんだよ。だがあなたの気にするようなデリカシイはあの男には持ち合わせがないんだ。あなたのような人は、あんな男は、小説の中の人間でも見るようなつもりで、もっと距離をおいて見ているんだよ。そうすれば、あの男のいやな処だって、だんだんに許せるようになるよ。あの男は本当の野蛮人だからね。あいつが、山羊や茶ア公とフザケている時をごらん。一番面白そうだよ。すっかり仲間になり切っているからね。」
 本当にそれは一番の愉快そうな時でした。彼は私の家の庭つづきの広い南向きの斜面の原っぱで、私共の大きな飼犬と山羊を相手にころがりまわりました。彼のがっしりした、私には寧ろ恐ろしい程な動物的な感じのする体が、真白な山羊の体と一緒に犬に追われながら、まるで子供の体のようにころがりまわるのです。そうしては青い草の中にいっぱい陽をあびて、ゴロリと横になっては犬をからかっていました。

        二

 Oは私にYを小説の中の人物の気で見ていろといいました。私もややそれに似た気持ちで見てはいましたけれど、そしてまた、彼の無知からくる子供らしい率直さを、充分に知ることはできましたけれど、それにもかかわらず、彼の中に深く根ざされている、傍若無人に振舞っている間にも、必ず他人の心の底を覗こうとする一種の狡猾さと、他の好意につけ込む図々しさと執拗さとにはどうしても眼をつぶる訳にはゆきませんでした。
 けれども、その時分、彼は非常な熱心さで運動をしていました。彼は同志の人の手を借りて小さなビラ代りの雑誌をつくりました。そして自分の家に南千住あたりの自由労働者を大勢ひっぱってきて、集合をしたり、演説会をしたりして、官憲の圧迫に反抗しながら勇敢に宣伝を続けておりました。
 彼の頭はメキメキ進みました。自分の姓名さえも満足に書くことのできないYが、いつの間にか、むずかしい理屈を、複雑な言葉で自由に話すようになったのには、誰も彼も感心しました。私共も、彼の執拗な質問にはなやまされましたが、それでも、一度腹に入った理屈は立派に自分のものにコナ[#「コナ」に傍点]してしまう頭を彼は持っていたのです。彼はどんなちょっとした他人の言葉尻でも、決して空には聞き流しませんでした。同志の人達は、彼とは係りなしに話しているのに、彼が横合からその言葉尻を捕えて腑に落ちるまで問い訊さねばおかないので、大事な話を台なしにされることがよくありました。けれども彼はその執拗な質問で自分の耳学問を進めていったのです。そして彼はその聞き噛った理屈を自分の過去の生活にあてはめて見ることを忘れませんでした。彼の耳学問はそういう風にしてだんだんと物になってきたのです。折々は、聞きかじりの間違った言葉や理屈でよく若い同志達に笑われたりしましたが、それでも彼はそんなことでは決してへこみはしませんでした。
 当時私共の間にはかなり大勢の労働者達が集まっていましたけれど、大抵は印刷工でそうひどい筋肉労働をする人達でもないし、その知的開発もかなり進んだ処まで受けていた人達が多かったので、私共にはYのような、またYが集めるような労働者は、非常に珍らしかったのです。その人々の疑いは非常に単純で無知でしたけれど、その後私共が多く見てきた労働者達とおなじように、私共の話すことは驚く程よく解るのでした。私共の力では到底及ばないそれ等の人々への宣伝に、Yの力が与っていたのはいうまでもありません。そのために彼は、Oはじめ多くの同志達に充分認められていました。みんなはかなりYを大事にしました。
 それを見て取った時分から、Yの調子が少しずつ、変ってきたのが私には見えはじめました。彼の無遠慮にますます嫌な誇張が多くなってきました。彼はその頃にはもうわざとあか[#「あか」に傍点]とあぶら[#「あぶら」に傍点]で真黒な着物を着ては、ゴロゴロと畳の上に寝ころぶような真似をし出しました。「虱なんかを嫌がって、労働運動|面《づら》もあるものか」と傲語しながら、ワザとかゆくもない体をボクボクかくというような誇張をはじめたのです。そして、その真面目な運動の話の方面にさえ大分誇張がまじってきました。
 新しい興味の多い労働者への宣伝に夢中になっている人達には、もちろんそんなことはどうでもよく、気もつかないようでした。しかし、「小説の中の人物のように」彼を見ようとして、始終彼に気持の上の圧迫を受け続けていた私には、だんだんと、彼が、労働者の同志として、みんなに大事がられるその位置に、いい気になりだしてきたのが分りました。

        三

 Yを慢心させ、その後彼をもっと悪い堕落に陥し入れたもう一つの大きな原因になっているのは「警察が恐くない」という実に単純な一つの事実です。
 それは、私共が、滝野川の家に越してから間もなくでした。Oは、何かの用事でYの家に行く事になりました。Oは以前一度その家へ行って見て、ぜひ私をその家に連れてゆこうといい出しました。当時Yは、浅草の田中町の小さな裏長屋に、始終彼の啓発者であったMさんといっしょに住んでいました。私は半ば好奇心からある晩子供をおぶって出かけてゆきました。
 それは、四畳半一間の家でした。しかもその四畳半の半だけは板の間で、そこがまず台所という形で、つきあたりの押入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居でした。露路をはいると、何ともいいようのない一種の臭気に閉口しながら、Yの家にはいった私は、そこでもその臭気に悩まされ続けました。
 話がはずんで、少し遅くなって帰ろうとすると、Yは泊ってゆけとしきりにとめるのです。私はその無茶な申出に驚いていました。さすがにMさんは、
「こんな処に泊めちゃ迷惑じゃないか。」
 とYをとめていましたけれど、Yはそんなことにはいっこうおかまいなしです。「くっつき合って寝れば八人は寝られる」と彼はムキになって主張するのです。
「後学のためだ、一つ我慢して泊って見るか。」
 とOは私を振りむいていいました。
「とんだ後学だなあ。」
 Mさんも私の顔を見ながら気の毒そうに苦笑しました。
「この辺の様子が、夜でちっとも分らなかったろう? 明日の朝もっとよく見て行くことにして泊ろうか。大分おそくもあるようだ。」
「ええ。」
 私も仕方なしに、泊ることにしました。
 その夜私は一晩中、うすい蒲団の中でゴロ寝の窮屈さと、子供を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りをすることもできず、体が半分痺れたような痛さを我慢して、どうして一人ででも帰らなかったろう、と後悔していました。
 Mさんは早く仕事に出て行ってしまいました。Oも眠れなかったと見えて子供が少し動くとすぐ振り返りました。Y一人は気持よさそうに眠っていました。
 Yが起きると私達も帯をしめ直して、顔を洗いに外に出ました。ずらりとならんだ長屋の門なみに、人が立っていて私共を不思議そうに見ていました。私は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中にはいりました。
 Yが近所の人から聞いた話だと、昨晩から、三人も刑事が露路の中にはいってきているので、長屋中で驚いているというのです。間もなく私共は三人で外に出ました。
 通りへ出て少し歩いていますと、私共の尾行が、すぐ後ろに三人くっついてきます。
「尾《つ》くのは構わないがね、もう少し後へさがって尾《つ》いて来て貰いたいね。」
 私はあんまりうるさいので、一人の男にそういいました。彼はぶっと面をふくらせて私を睨みつけました。私は構わず、少し後れていたので、急いでYとOにおいつきました。
 が、気がつくと彼等はやはりすぐ後ろから来ます。
「今いったことがお前さん達には分らないのかい?」
 私は先刻の男を睨みながらいいました。
「余計な指図は受けない。」
 彼は悪々しく私にいい返しました。
「余計な指図? お前さん達は、現に尾行をしながら尾行の原則を知らないのかい。尾行の方法を知らないのかい?」
「余計はことをいわなくてもいい。」
 彼が恐ろしい顔付きをしていい終わったか終わらないうちに、Oはそこまで引き返して来ていました。
「何っ! もう一ぺんいって見ろ! 何が余計なことだ。貴様等は他人の迷惑になるように尾行しろといいつけられたか。」
「迷惑だろうが迷惑であるまいが、此方《こっち》は職務でやっているんだ。」
 彼は蒼くなって肩を聳かしました。
「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」
 Oはいきなりその男の喉首をつかみました。
「何を乱暴な!」
 と叫んだが、彼はもう抵抗し得ませんでした。あとの二人の奴は腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついてきました。
 往来の人達は、この奇妙な光景をボンヤリして見ていました。大抵の人達は、今首をしめられて、引きずられてゆく巡査の顔を見知っているのです。
 Y
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