は真青な顔をしていました。Oに日本堤の警察に案内するようにといわれて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩きました。それでも途中で一二度知った人に訊かれると、
「なにね、彼奴《あいつ》が馬鹿だからね、これから警察へしょぴいて行ってとっちめるのさ。」
 とちょっと得意らしく説明していました。日本堤署では、早いので署長は出ていませんでした。居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、OやYのいうことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てました。私はその間にそっと出て、近所で署長の家を訪ねた。すぐ分ったので、行くと署長はもう出かけようとしているところでした。私は簡単にわけを話してすぐ署の方に出かけるように促しました、そこにOとYが来ました。署長は案外話が分りました。私共は尾行をとりかえて貰って帰ってきました。

        四

 Yには、この小さなできごとが余程深い感銘を与えたのか、それから少しの間は、絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないことを主張しました。みんなには、これは苦笑の種でしたが、Yはそれから警察に対して急に強くなりました。そして一つ警察をへこましてゆくたびに彼は持ち前の増長をそこに持ってゆきました。彼の住んでいるあたりの人達は、世間一般の人達よりはいっそう警察を恐れる人達でした。その真ん中で、Yは存分に、同志の力を借りては、集会や演説会のたびに群ってくる警官の群を翻弄して見せて得意になっておりました。みんなは、その稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑話の種にしていました。
 が、彼は大真面目でした。彼は「警察が何でもない」ということがどれほど我々への注意を引くか、ということを熱心に話しました。彼の話はもっともな点がかなりありました。彼のいう所によりますと、一般の労働者階級が警察というものにいじめられているのは、お話の外だ、というのです。それで、彼等は極度に恐れていると同時に、極度にまた憎んでいるのだ。だから、俺達が警察を相手に喧嘩することは、彼等の興味をひきつける最上の手段だ、というのです。彼はそう信ずると同時に、かなり無茶に暴れました。けれども、彼がその住んでいた周囲のその驚異と興味の眼をどれほど得意でいたかは、容易に想像のできることです。
 警察はこの無茶な男に手こずり出しました。そして、さっそくにその追払いの手段を講じかけました。同時にまた、尾行の巡査達はこの男のためにしくじり[#「しくじり」に傍点]を少くするために、いろいろとずるい[#「ずるい」に傍点]やり方をはじめました。元来が非常に自惚れの強いこのお人好のYは、すぐ他の尾行のおだてに乗りはじめました。彼は馬鹿にされされ、自分だけはえらくなった気で威張っていました。それと同時に、彼の持っているもう一面の狡猾さで、図々しさが抜目なく働き出してきました。彼は尾行をおどかしおどかし電車賃を立替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前の仲間になったつもりで誇り出しました。それと同時に、引き札がわりに撒くような雑誌をつくるようになって、彼は鍛冶屋を止めました。そしてその印刷費の幾分を広告によろうとしました。此の広告集めは、彼の持っている一面の危険性を知っているOには一つの憂慮の種でした。
「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう。」
 Oはよくそういっていました。けれどもその当時私共は、到底Yがそれをしないでもすむ程の助力をすることができなかったのです。果して、Yはだんだんに、その悪辣な世間師的な図々しさを発揮してきました。それは、ことに、警察を彼がなめ切ってからは、ずんずん輪をかけてゆきました。
 彼が増長し出してから、折々|苦《にが》いことをいうのは、始終彼の傍で彼を教育し、彼を助けてきたMさんとOだけでした。さすがの彼も、年下でも、自分よりはずっと、思慮分別も知識も勝れたMさんには、一目も二目もおいていました。
 けれども、やがてそのMさんも、半分さじを投げたような無関心の時が来ました。誰も彼も、彼の図々しさにおそれをなして、彼を避けて通るようになりました。が、彼はこれを、自分のえらく[#「えらく」に傍点]なったせいにしはじめたのです。その頃に、彼はもういいかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。もう少し前のように、誰も彼を大事にするものはありませんでした。

        五

 ちょうどその頃、Yはその借家のゴタゴタから問題を起こして拘引されました。それは大正八年の夏のことで、労働運動の盛んに起こってきた年の夏で、警視庁は躍起となって、この機運に乗じて運動を起こそうとする社会主義者の検挙に腐心したのです。そしてYと同時に、Oも次から次へ、様々な罪名で取調べを受けている時でした。Yは、すぐに起訴されて収監されました。彼のやや外れかかった生活状態に、多少の憂慮を抱いていた同志は、みんないい機会が来たことをよろこびました。
 収監される前に、私が警視庁で会った時、Yは非常な元気でした。しかし、私は収監されてからの彼のことを考えると可愛そうでした。彼は自分の名前をろくに書けないのです。彼はその以前に、私に、自分が姓名もろくに書けないので馬鹿にされる、ということを話して、原籍と姓名だけを書けるようになりたいから、チャンとそのお手本を書いてくれ、と頼んだことがあります。けれども、彼のそのしおらしい頼みで書いた私の手本が、恐らくはその日一日も彼の懐には落ちつかなかったろうということを、私はよく知っています。彼は理屈を覚えるのには熱心で、というよりはむしろ執拗でしたけれど、自分で本を読めるようになろうというような努力はまるでしませんでした。そんな手数のかかることは面倒でしかたがなかったのです。
 そんな彼でしたから、彼は同志に宛てたハガキ一枚書くこともできなければ、また、せっかく貰った手紙も読むことができないのです。そして、少しもだまっていることのできない彼が、そのじっとしているに堪え切れないその健康すぎるほど活力に満ちた体を抱いて、小さな檻房の中に押し込まれているのです。そのことを思いやると、本当に可哀そうでした。
 よく同志の世話の行き届くGは、彼のためにその弱い体を運んで面会をしては彼の面倒を見ました。Yには、印刷した仮名がやっと読めることがわかりました。で、Gは一生懸命に振り仮名をした恰好な書物を入れてやったりしました。しかし、Yはもうその時にかなり耳学問で頭が進んでいました。それで、彼によさそうな書物は、どんな初歩のやさしいものでも振仮名をした本というのはなかなかないのでした。あまりやさしいものだと、彼は何の考えもなく怒りました。
 振仮名を拾って大骨を折ってする彼の読書の辛さを思いやって、Gはある時、肩のこらぬ面白そうなものを、というので、講談に近い、「西郷隆盛」か何かを差し入れたことがありました。彼はそれを喜んで読むかと思いの外、彼は非常に怒りました。「講談本なんぞを入れて貰うと看守共が馬鹿にする」というのです。彼のこの子供らしい単純な見栄にはみんなただ笑うより仕方がありませんでした。そんなくらいなので彼の読み物をさがすのは、Gには大きな一つの重荷でした。獄中の同志に書物を差入れるということは、何でもない簡単なことのように見えて、実はこれほど厄介な骨の折れることはないのです。どうでもいい、ただ読むものを入れてやる、というのならばまだしもです。少しでもみになるように無駄をしないように、囚人としての心の環境から考えの中に入れてするのは本当に一仕事です。その骨の折れる差入れの仕事でも、Gは「これほど骨の折れることはない」とよくこぼしていました。
 が、Yはいっこう無頓着で、いいたいだけのわがままを遠慮なく、というよりはむしろ彼の持ちまえのあまりな図々しさで押しつけました。彼は日頃から公言していたように、牢にはいれば、同志はどんなにしてでも彼の世話をしてもいいはずだという考えしか持っていなかったのです。彼は未決監にいる間、できるだけのわがままをしつづけました。
 その間にOは捕えられたり放たれたりして、とうとう最後のコヂつけで未決にいましたが、一審が終わると同時に保釈で出ました。が、Yは一審の判決がすむとすぐ既決に下って中野の監獄に送られました。
 彼はそこで六ケ月の刑期を送りました。既決に降ってからは刑期中は仲間への消息は絶えました。彼は振りがなの本を読むことも許されず、手紙も書けませんでしたから。

      六

 彼が刑期を終えて出て来たのは、その次ぎの年の一月でした。私共はその前年Oが保釈で出ている間にはじめて第一次の「労働運動」を出していました。Oは十二月の末に入獄して留守でしたが、家には三四人の同志の人がいて雑誌を継続していたのです。出獄した彼は、他にゆく処もないので、しばらく置くことにしました。
 さすがのYも青白い牢上りらしい顔色をして、大分痩せて帰ってきました。でもやはり元気よく珍らしかった牢屋の生活をしきりにみんなに聞かせるのでした。その前に私はすでに三人ばかりの出獄者を迎えましたが、獄中での生活は、一つ基準のもとにある規則的な生活であるのにもかかわらず、みんなの話がめいめいに、その人らしい特色を強く現わしていて面白いのでした。ことに単純なYの、孤独というものをまるで知らないYの、遮断された生活の感想は、特別面白いのでした。
 彼は獄中では、ほとんど暴れとおしたということでした。その刑期の最後の日まで彼は「減食」の罰を受けていたのだそうです。しかもその罰は彼がもう三日いなければ、おしまいにはならぬのだと彼はいっていました。
 獄中での唯一の彼のおしゃべりの時間は教誨師の訪問を受ける時でした。教誨師は彼をしきりに説き伏せようとしました。が、博学な教誨師がいつも無学なYの理屈にまかされたのです。
「だけんど、俺がたった一つ困ったことがあったんだ。」
 彼はそういって私に話しました。
「俺のような無学な者にまけるもんだから、奴よっぽど癪にさわったんだね。ある時来ていうには、『お前は、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないといったな、命令をする奴なんぞがあるのは間違いだといったなあ。だがねえ、たとえば人間の体というものは、頭だの体だの、手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関がはいっている。そのいろんな部分がどうして働いてゆくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっばりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ、動かないんだ』とこういいやがるんだ。成程なあ、俺あそんな体のことなんか知らねえから返事に詰まっちゃったんだ。すると坊主の奴、『どうだ、それに違いないだろう』ってぬかしやがる。俺あ口惜しいけれど、黙ってたんだ。すると『よく考えて見ろ、お前のいうことは確かに間違ってる』って行っちまいやがった。」
「さあ口惜しくてならねえ。こうなりゃ仕事もくそもあるもんか。俺はそれから半日、夜まで考えてやっと考えついたんだ。それから今度坊主が来た時に俺はいってやった。『俺のいうことは間違ってやしねえ。俺は無学で人間の体がどういう風に働くか知らねえが、うんと歩いてくたびれ切った時にゃ、いくら歩こうと思ったって、足が前に出やしねえ。手が痛い時にゃ動かそうと思ったって動かねえや。またいくら食おうと思って食ったって、口までは食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでも何でもかんでも頭のいう通りになるのかね。それからまたよしんば、方々で頭のいうこと聞いて働くにした処でだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴のおのれ一人の力じゃないじゃねえか。なら、どこもここも五分々々じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う』っていってやったんだ。するとね、今度は坊主の奴が黙
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