分痺れたような痛さを我慢して、どうして一人ででも帰らなかったろう、と後悔していました。
 Mさんは早く仕事に出て行ってしまいました。Oも眠れなかったと見えて子供が少し動くとすぐ振り返りました。Y一人は気持よさそうに眠っていました。
 Yが起きると私達も帯をしめ直して、顔を洗いに外に出ました。ずらりとならんだ長屋の門なみに、人が立っていて私共を不思議そうに見ていました。私は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中にはいりました。
 Yが近所の人から聞いた話だと、昨晩から、三人も刑事が露路の中にはいってきているので、長屋中で驚いているというのです。間もなく私共は三人で外に出ました。
 通りへ出て少し歩いていますと、私共の尾行が、すぐ後ろに三人くっついてきます。
「尾《つ》くのは構わないがね、もう少し後へさがって尾《つ》いて来て貰いたいね。」
 私はあんまりうるさいので、一人の男にそういいました。彼はぶっと面をふくらせて私を睨みつけました。私は構わず、少し後れていたので、急いでYとOにおいつきました。
 が、気がつくと彼等はやはりすぐ後ろから来ます。
「今いったことがお前さん達には分らないのかい?」
 私は先刻の男を睨みながらいいました。
「余計な指図は受けない。」
 彼は悪々しく私にいい返しました。
「余計な指図? お前さん達は、現に尾行をしながら尾行の原則を知らないのかい。尾行の方法を知らないのかい?」
「余計はことをいわなくてもいい。」
 彼が恐ろしい顔付きをしていい終わったか終わらないうちに、Oはそこまで引き返して来ていました。
「何っ! もう一ぺんいって見ろ! 何が余計なことだ。貴様等は他人の迷惑になるように尾行しろといいつけられたか。」
「迷惑だろうが迷惑であるまいが、此方《こっち》は職務でやっているんだ。」
 彼は蒼くなって肩を聳かしました。
「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」
 Oはいきなりその男の喉首をつかみました。
「何を乱暴な!」
 と叫んだが、彼はもう抵抗し得ませんでした。あとの二人の奴は腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついてきました。
 往来の人達は、この奇妙な光景をボンヤリして見ていました。大抵の人達は、今首をしめられて、引きずられてゆく巡査の顔を見知っているのです。
 Yは真青な顔をしていました。Oに日本堤の警察に案内するようにといわれて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩きました。それでも途中で一二度知った人に訊かれると、
「なにね、彼奴《あいつ》が馬鹿だからね、これから警察へしょぴいて行ってとっちめるのさ。」
 とちょっと得意らしく説明していました。日本堤署では、早いので署長は出ていませんでした。居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、OやYのいうことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てました。私はその間にそっと出て、近所で署長の家を訪ねた。すぐ分ったので、行くと署長はもう出かけようとしているところでした。私は簡単にわけを話してすぐ署の方に出かけるように促しました、そこにOとYが来ました。署長は案外話が分りました。私共は尾行をとりかえて貰って帰ってきました。

        四

 Yには、この小さなできごとが余程深い感銘を与えたのか、それから少しの間は、絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないことを主張しました。みんなには、これは苦笑の種でしたが、Yはそれから警察に対して急に強くなりました。そして一つ警察をへこましてゆくたびに彼は持ち前の増長をそこに持ってゆきました。彼の住んでいるあたりの人達は、世間一般の人達よりはいっそう警察を恐れる人達でした。その真ん中で、Yは存分に、同志の力を借りては、集会や演説会のたびに群ってくる警官の群を翻弄して見せて得意になっておりました。みんなは、その稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑話の種にしていました。
 が、彼は大真面目でした。彼は「警察が何でもない」ということがどれほど我々への注意を引くか、ということを熱心に話しました。彼の話はもっともな点がかなりありました。彼のいう所によりますと、一般の労働者階級が警察というものにいじめられているのは、お話の外だ、というのです。それで、彼等は極度に恐れていると同時に、極度にまた憎んでいるのだ。だから、俺達が警察を相手に喧嘩することは、彼等の興味をひきつける最上の手段だ、というのです。彼はそう信ずると同時に、かなり無茶に暴れました。けれども、彼がその住んでいた周囲のその驚異と興味の眼をどれほど得意でいたかは、容易に想像のできることです。
 警察はこの無茶な男に手こずり
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