ぱってきて、集合をしたり、演説会をしたりして、官憲の圧迫に反抗しながら勇敢に宣伝を続けておりました。
彼の頭はメキメキ進みました。自分の姓名さえも満足に書くことのできないYが、いつの間にか、むずかしい理屈を、複雑な言葉で自由に話すようになったのには、誰も彼も感心しました。私共も、彼の執拗な質問にはなやまされましたが、それでも、一度腹に入った理屈は立派に自分のものにコナ[#「コナ」に傍点]してしまう頭を彼は持っていたのです。彼はどんなちょっとした他人の言葉尻でも、決して空には聞き流しませんでした。同志の人達は、彼とは係りなしに話しているのに、彼が横合からその言葉尻を捕えて腑に落ちるまで問い訊さねばおかないので、大事な話を台なしにされることがよくありました。けれども彼はその執拗な質問で自分の耳学問を進めていったのです。そして彼はその聞き噛った理屈を自分の過去の生活にあてはめて見ることを忘れませんでした。彼の耳学問はそういう風にしてだんだんと物になってきたのです。折々は、聞きかじりの間違った言葉や理屈でよく若い同志達に笑われたりしましたが、それでも彼はそんなことでは決してへこみはしませんでした。
当時私共の間にはかなり大勢の労働者達が集まっていましたけれど、大抵は印刷工でそうひどい筋肉労働をする人達でもないし、その知的開発もかなり進んだ処まで受けていた人達が多かったので、私共にはYのような、またYが集めるような労働者は、非常に珍らしかったのです。その人々の疑いは非常に単純で無知でしたけれど、その後私共が多く見てきた労働者達とおなじように、私共の話すことは驚く程よく解るのでした。私共の力では到底及ばないそれ等の人々への宣伝に、Yの力が与っていたのはいうまでもありません。そのために彼は、Oはじめ多くの同志達に充分認められていました。みんなはかなりYを大事にしました。
それを見て取った時分から、Yの調子が少しずつ、変ってきたのが私には見えはじめました。彼の無遠慮にますます嫌な誇張が多くなってきました。彼はその頃にはもうわざとあか[#「あか」に傍点]とあぶら[#「あぶら」に傍点]で真黒な着物を着ては、ゴロゴロと畳の上に寝ころぶような真似をし出しました。「虱なんかを嫌がって、労働運動|面《づら》もあるものか」と傲語しながら、ワザとかゆくもない体をボクボクかくというような誇張をはじめたのです。そして、その真面目な運動の話の方面にさえ大分誇張がまじってきました。
新しい興味の多い労働者への宣伝に夢中になっている人達には、もちろんそんなことはどうでもよく、気もつかないようでした。しかし、「小説の中の人物のように」彼を見ようとして、始終彼に気持の上の圧迫を受け続けていた私には、だんだんと、彼が、労働者の同志として、みんなに大事がられるその位置に、いい気になりだしてきたのが分りました。
三
Yを慢心させ、その後彼をもっと悪い堕落に陥し入れたもう一つの大きな原因になっているのは「警察が恐くない」という実に単純な一つの事実です。
それは、私共が、滝野川の家に越してから間もなくでした。Oは、何かの用事でYの家に行く事になりました。Oは以前一度その家へ行って見て、ぜひ私をその家に連れてゆこうといい出しました。当時Yは、浅草の田中町の小さな裏長屋に、始終彼の啓発者であったMさんといっしょに住んでいました。私は半ば好奇心からある晩子供をおぶって出かけてゆきました。
それは、四畳半一間の家でした。しかもその四畳半の半だけは板の間で、そこがまず台所という形で、つきあたりの押入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居でした。露路をはいると、何ともいいようのない一種の臭気に閉口しながら、Yの家にはいった私は、そこでもその臭気に悩まされ続けました。
話がはずんで、少し遅くなって帰ろうとすると、Yは泊ってゆけとしきりにとめるのです。私はその無茶な申出に驚いていました。さすがにMさんは、
「こんな処に泊めちゃ迷惑じゃないか。」
とYをとめていましたけれど、Yはそんなことにはいっこうおかまいなしです。「くっつき合って寝れば八人は寝られる」と彼はムキになって主張するのです。
「後学のためだ、一つ我慢して泊って見るか。」
とOは私を振りむいていいました。
「とんだ後学だなあ。」
Mさんも私の顔を見ながら気の毒そうに苦笑しました。
「この辺の様子が、夜でちっとも分らなかったろう? 明日の朝もっとよく見て行くことにして泊ろうか。大分おそくもあるようだ。」
「ええ。」
私も仕方なしに、泊ることにしました。
その夜私は一晩中、うすい蒲団の中でゴロ寝の窮屈さと、子供を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りをすることもできず、体が半
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