出しました。そして、さっそくにその追払いの手段を講じかけました。同時にまた、尾行の巡査達はこの男のためにしくじり[#「しくじり」に傍点]を少くするために、いろいろとずるい[#「ずるい」に傍点]やり方をはじめました。元来が非常に自惚れの強いこのお人好のYは、すぐ他の尾行のおだてに乗りはじめました。彼は馬鹿にされされ、自分だけはえらくなった気で威張っていました。それと同時に、彼の持っているもう一面の狡猾さで、図々しさが抜目なく働き出してきました。彼は尾行をおどかしおどかし電車賃を立替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前の仲間になったつもりで誇り出しました。それと同時に、引き札がわりに撒くような雑誌をつくるようになって、彼は鍛冶屋を止めました。そしてその印刷費の幾分を広告によろうとしました。此の広告集めは、彼の持っている一面の危険性を知っているOには一つの憂慮の種でした。
「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう。」
 Oはよくそういっていました。けれどもその当時私共は、到底Yがそれをしないでもすむ程の助力をすることができなかったのです。果して、Yはだんだんに、その悪辣な世間師的な図々しさを発揮してきました。それは、ことに、警察を彼がなめ切ってからは、ずんずん輪をかけてゆきました。
 彼が増長し出してから、折々|苦《にが》いことをいうのは、始終彼の傍で彼を教育し、彼を助けてきたMさんとOだけでした。さすがの彼も、年下でも、自分よりはずっと、思慮分別も知識も勝れたMさんには、一目も二目もおいていました。
 けれども、やがてそのMさんも、半分さじを投げたような無関心の時が来ました。誰も彼も、彼の図々しさにおそれをなして、彼を避けて通るようになりました。が、彼はこれを、自分のえらく[#「えらく」に傍点]なったせいにしはじめたのです。その頃に、彼はもういいかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。もう少し前のように、誰も彼を大事にするものはありませんでした。

        五

 ちょうどその頃、Yはその借家のゴタゴタから問題を起こして拘引されました。それは大正八年の夏のことで、労働運動の盛んに起こってきた年の夏で、警視庁は躍起となって、この機運に乗じて運動を起こそうとする社会主義者の検挙に腐心したのです。そしてYと同時に、Oも次から次へ、様々な罪名で取調べを受けている時でした。Yは、すぐに起訴されて収監されました。彼のやや外れかかった生活状態に、多少の憂慮を抱いていた同志は、みんないい機会が来たことをよろこびました。
 収監される前に、私が警視庁で会った時、Yは非常な元気でした。しかし、私は収監されてからの彼のことを考えると可愛そうでした。彼は自分の名前をろくに書けないのです。彼はその以前に、私に、自分が姓名もろくに書けないので馬鹿にされる、ということを話して、原籍と姓名だけを書けるようになりたいから、チャンとそのお手本を書いてくれ、と頼んだことがあります。けれども、彼のそのしおらしい頼みで書いた私の手本が、恐らくはその日一日も彼の懐には落ちつかなかったろうということを、私はよく知っています。彼は理屈を覚えるのには熱心で、というよりはむしろ執拗でしたけれど、自分で本を読めるようになろうというような努力はまるでしませんでした。そんな手数のかかることは面倒でしかたがなかったのです。
 そんな彼でしたから、彼は同志に宛てたハガキ一枚書くこともできなければ、また、せっかく貰った手紙も読むことができないのです。そして、少しもだまっていることのできない彼が、そのじっとしているに堪え切れないその健康すぎるほど活力に満ちた体を抱いて、小さな檻房の中に押し込まれているのです。そのことを思いやると、本当に可哀そうでした。
 よく同志の世話の行き届くGは、彼のためにその弱い体を運んで面会をしては彼の面倒を見ました。Yには、印刷した仮名がやっと読めることがわかりました。で、Gは一生懸命に振り仮名をした恰好な書物を入れてやったりしました。しかし、Yはもうその時にかなり耳学問で頭が進んでいました。それで、彼によさそうな書物は、どんな初歩のやさしいものでも振仮名をした本というのはなかなかないのでした。あまりやさしいものだと、彼は何の考えもなく怒りました。
 振仮名を拾って大骨を折ってする彼の読書の辛さを思いやって、Gはある時、肩のこらぬ面白そうなものを、というので、講談に近い、「西郷隆盛」か何かを差し入れたことがありました。彼はそれを喜んで読むかと思いの外、彼は非常に怒りました。「講談本なんぞを入れて貰うと看守共が馬鹿にする」というのです。彼のこの子供らしい単純な見栄にはみんなただ笑うより仕方がありませ
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