旅への誘い
織田作之助

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私《うち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
−−

 喜美子は洋裁学院の教師に似合わず、年中ボロ服同然のもっさりした服を、平気で身につけていた。自分でも吹きだしたいくらいブクブクと肥った彼女が、まるで袋のようなそんな不細工な服をかぶっているのを見て、洋裁学院の生徒たちは「達磨さん」と称んでいた。
 しかし、喜美子はそんな綽名をべつだん悲しみもせず、いかにも達磨さんめいたくりくりした眼で、ケラケラと笑っていた。
「達磨は面壁九年やけど、私《うち》は三年の辛抱で済むのや。」
 三年経てば、妹の道子は東京の女子専門学校を卒業する、乾いた雑布を絞るような学資の仕送りの苦しさも、三年の辛抱で済むのだと、喜美子は自分に言いきかせるのであった。
 両親をはやく失って、ほかに身寄りもなく、姉妹二人切りの淋しい暮しだった。姉の喜美子はどちらかといえば醜い器量に生れ、妹の道子は生れつき美しかった。妹の道子が女学校を卒業すると、喜美子は、「姉ちゃん、私《うち》ちょっとも女専みたいな上の学校、行きたいことあれへん。私《うち》かて働くわ。」という道子を無理矢理東京の女子専門学校の寄宿舎へ入れ、そして自分は生国魂《いくだま》神社の近くにあった家を畳んで、北畠のみすぼらしいアパートへ移り、洋裁学院の先生になったその日から、もう自分の若さも青春も忘れた顔であった。
 妹の学資は随分の額だのに、洋裁学院でくれる給料はお話にならぬくらい尠く、夜間部の授業を受け持ってみても追っつかなかった。朝、昼、晩の三部教授の受持の時間をすっかり済ませて、古雑布のようにみすぼらしいアパートに戻って来ると、喜美子は古綿を千切って捨てたようにくたくたに疲れていたが、それでも夜更くまで洋裁の仕立の賃仕事をした。月に三度の公休日にも映画ひとつ見ようとせず、お茶ひとつ飲みにも行かず、切り詰め切り詰めた一人暮しの中で、せっせと内職のミシンを踏み、急ぎの仕立の時には徹夜した。徹夜の朝には、誰よりも早く出勤した。
 そして、自分はみすぼらしい服装に甘んじながら、妹の卒業の日をまるで泳ぎつくように待っているうちに、さすがに無理がたたったのか、喜美子は水の引くようにみるみる痩せて行った。
「こんな痩せた達磨さんテあれへんわ。」
 鏡を見て喜美子はひとり笑ったが、しかし、やがてそんな冗談も言っておれぬくらい、だんだんに衰弱して行った。
 道子がやっと女専を卒業して、大阪の喜美子のもとへ帰って来たのは、やがてアパートの中庭に桜の花が咲こうとする頃であった。
「お姉さま、只今、お会いしたかったわ。」
 三年の間に道子はすっかり東京言葉になっていた。喜美子はうれしさに胸が温《あたた》まって、暫らく口も利けず、じっと妹の顔を見つめていたが、やがて、いきなり妹の手を卒業免状と一緒に強く握りしめた、その姉の手の熱さに、道子はどきんとした。
「あら、お姉さまの手、とっても熱い。熱があるみたい……」
 言いながら道子は、びっくりしたように姉の顔を覗きこんで、
「……それに、随分お痩せになったわね。」
「ううん、なんでもあれへん。痩せた方が道《みち》ちゃんに似て来て、ええやないの。」
 喜美子はそう言って淋しく笑ったが、しかし、その晩喜美子は三十九度以上の熱をだした。道子は制服のまま氷を割ったり、タオルを絞りかえたりした。朝、医者が来た。肋膜を侵されているということだった。
 医者が帰ったあとで、道子は薬を貰いに行った。粉薬と水薬をくれたが、随分はやらぬ医者らしく、粉薬など粉がコチコチに乾いて、ベッタリと袋にへばりつき、何年も薬局の抽出の中に押しこんであったのをそのまま取り出して、呉れたような気がして、なにか頼りなかったが、しかし道子は姉がそれを服む時間が来ると、「どうぞ効いてくれますように。」と、ひそかに祈った。しかし姉の熱は下らなかった。
 桜の花が中庭に咲き、そして散り、やがていやな梅雨が来ると、喜美子の病気はますますいけなくなった。梅雨があけると生国魂神社の夏祭が来る、丁度その宵宮《よみや》の日であった。喜美子が教えていた戦死者の未亡人達が、やがて卒業して共同経営の勲洋裁店を開くのだと言って、そのお礼かたがた見舞いに来た。
 道子がそのひと達を玄関まで見送って、部屋へ戻って来ると、壁の額の中にはいっている道子の卒業免状を力のない眼で見上げていた喜美子が急に、蚊細いしわがれた声で、
「道《みっ》ちゃん、生国魂さんの獅子舞の囃子がきこえてるわ。」
 と、言った。道子はふっと窓の外に耳を傾けた。しかしこのアパートから随分遠くはなれた生国魂神社の境内の獅子舞の稽古の音が聴えて来
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング