る筈もない。
 窓に西日が当っているのに気がついたので、道子は立ってカーテンを引いた。そしてふと振りむくと、喜美子は「ああ。」とかすかに言って、そのまま息絶えていた。
 姉の葬式を済ませて、三日目の朝のことだった。この四五日手にとってみることもなく溜っていた古い新聞を、その溜っていることをいかにも自分の悲しみのしるしのように思いながら、見るともなく見ていた道子は、急に眼を輝かした。南方派遣日本語教授要員の募集の記事が、ふと眼に止ったのである。
「南方へ日本語を教えに行く人を募集しているのだわ。」
 と、呟きながら読んで行って、「応募資格ハ男女ヲ問ハズ、専門学校卒業又ハ同程度以上ノ学力ヲ有スル者」という個所まで来ると、道子の眼は急に輝いた。道子はまるで活字をなめんばかりにして、その個所をくりかえしくりかえし読んだ。
「応募資格ハ男女ヲ問ハズ、専門学校……。」
 道子はふと壁の額にはいった卒業免状を見上げた。姉の青春を、いや、姉の生命を奪ったものはこれだったかと、見るたびチクチクと胸が痛んだ卒業免状だったが、いまふと、
「あ、ちょうどあれが役に立つわ。」
 と、呟いた咄嗟に、道子の心はからりと晴れた。
「お姉さまがご自分の命と引きかえに貰って下すったあの卒業免状を、お国の役に立てることが出来るのだわ。そうだ、私は南方へ日本語を教えに行こう!」
 道子はそう呟きながら、道子は、姉の死の悲しい想出のつきまとう内地をはなれて、遠く南の国へ誘う「旅への誘い」にあつく心をゆすぶられていた。
 二十七の歳までお嫁にも行かず、若い娘らしい喜びも知らず、達磨さんは孤独な、清潔な苦労とにらみっこしながら、若い生涯を終ってしまったのである。その姉のさびしい生涯を想えば、もはや月並みな若い娘らしい幸福に甘んずることは許されず、姉の一生を吹き渡った孤独な冬の風に自分もまた吹雪と共に吹かれて行こうという道子にとっては、自分の若さや青春を捨てて異境に働き、異境に死ぬよりほかに、姉に報いる道はないと思われた。
「お姉さまもきっと喜んで下さるわ。」
 南方で日本語を教えるには標準語が話せなくてはならない、しかし自分は三年間東京にいたからその点は大丈夫だと、道子はわざわざ東京の学校へ入れてくれた姉の心づくしが今更のように思い出された。
 志願書を出して間もなく選衡試験が行われる。その口答試問の席上で、志願の動機や家庭の情況を問われた時、
「姉妹二人の暮しでしたが……。」
 と言いながら、道子は不覚にも涙を落し、
「あ、こんなに取り乱したりして、きっと口答試問ではねられてしまうわ。」
 と心配したが、それから一月余り経ったある朝の新聞の大阪版に、合格者の名が出ていて、その中に田村道子という名がつつましく出ていた。道子の姓名は田中道子であった。それが田村道子となっているのは、たぶん新聞の誤植であろうと、道子は一応考えたが、しかしひょっとして同じ大阪から受験した女の人の中に自分とよく似た名の田村道子という人がいるのかも知れない、そうだとすれば大変と思って、ひたすら正式の通知を待ちわびた。
 合格の通知が郵便で配達されたのは、三日のちの朝であった。ところが、その通知と一緒に、田中喜美子様と、亡き姉に宛てた手紙が、ひょっこり配達されていた。アパートの中庭では、もう木犀の花が匂っていた。
 死んでしまった姉に思いがけなく手紙が舞い込んで来るなど、まるで嘘のような気がした。姉が死んだのは、忘れもしない生国魂神社の宵宮の暑い日であったが、もう木犀の匂うこんな季節になったのかと、姉の死がまた熱く胸にきて、道子は涙を新たにした。
 やがて涙を拭いて、封筒の裏を見ると、佐藤正助とある。思いがけず男の人からの手紙であった。道子は何か胸が騒いだ。
 道子が姉のもとへ帰ってから、もう半年以上にもなるが、つひぞ[#「つひぞ」はママ]これ迄男の人から姉の所へ見舞いの手紙も、またくやみの手紙も来たことはなく、それが姉のさびしく清潔な生涯を悲しく裏書しているようで、道子はふっとせつなかったが、しかし姉が死んで三月も経った今、手紙を寄越して来たこの佐藤正助という人は一体誰だろうと、好奇心が起るというより、むしろ淋しかった。
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 随分永らく御無沙汰して申訳ありません。僕も愈よ来年は大学を卒業するというところまで漕ぎつけましたが、それに先立って、学徒海鷲を志願し、近く学窓を飛び立つことになりました。永い間苦学生としての生活を送って来た僕には、泳ぎつくように待たれた卒業でしたが、しかしいま学徒海鷲として飛び立つ喜びは、卒業以上の喜びです。恐らく生きて帰れないでしょう。従ってあなたにもお眼に掛れぬと思います。いつぞやあなたにお貸した鴎外の「即興詩人」の書物は、僕のかたみとして受け取って下
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