、母ちゃんに叱られま」
「なんぜ叱られるねン」
「なんぜ言うたかテ、刺青いうたら、まともな人間のするもんと違いまっしゃろ」
 次郎はませた口調だが、さすがに少年らしくぶるぶるふるえた声で言った。
「そら考えちがいやぜ」
 と、針助はネチネチとした口調で、言いきかせるように、
「――刺青いうたら、ええもんやぜ。だいいちお前ら掏摸になるネやったら、刺青の一つぐらいしとかんと、幅が利かん。刺青をしてるのンと、してへんのと仲間での顔の売れ方がちがう。ええ兄貴分になろうおもたら、刺青にものを言わすのが一番やぜ」
「いやだす、いやだす」
「わいもいやや」
 次郎と三郎は口をそろえて言った。
「いやか。ほんまに、いやか」
 針助の声は急に凄んだが、ふと優しい女のような声に戻ると、
「あはは……、まア、パンでも食べろ」
 と、またふところから差し出した。
「…………」
 次郎と三郎はしかし、もう出されたパンに手を出そうとしなかった。
 針助はギラギラ燃える眼で、なめるように二人を見つめていた。
 二人の身体つきは少女のようにきゃしゃで、首筋は垢でよごれているが、垢の下の皮膚は少女のように白く、何か哀れな脆さが痛々しかった。が、それだけに、
「こんな子供を裸にして、背中にプスリと刺青を入れてみたら……」
 という、残酷な期待に、針助は全身がうずくようだった。
「――あの針をプスリと……」
 と、針助は部屋の隅の針をちらと見た。針の先は電燈の光を浴びて、白い鋭さに冴えていた。
 針助はギラギラと燃えていた眼を、急にうっとりと細めて、針の先を見つめていたが、やがて、
「ほな、どない言うても、いやか」
 次郎はうなずきながら、思わず三郎に寄り添うた。
 三郎はもう口も利けず、次郎にすがりついていた。
「いやなら、いやでもええ、その代り、お前らを監獄イ入れてやる」
「カンゴク……?」
 次郎と、三郎は、飛び上った。
「そや、お前らわいを掏りけつかったさかい、監獄イ行かんならんぞ」
「かにしとくなはれ。それだけはかにしとくなはれ、カンゴクだけは……」
「ほな、刺青をするか」
 針助の声は急に凄んだ。
「――監獄イ行くのがええか、刺青をするのがええか。どっちや」

    青蛇団

 ヒンブルのお加代――またの名を兵古帯のお加代が、鴈治郎横丁界隈で、大阪の南の空で流星を見て、
「――豹吉!」
 と、呟いたのとちょうど同じ時刻――
 豹吉は大阪の北の空を仰いで、同じ星が流れるのを見ながら、ふと、
「――雪子!」
 と、呟いていた。
 そして、ペッと唾を吐き捨てた。南の盛り場でドジを踏んで、警官に追われたが、さすがにつかまるようなドジだけは踏まず、どこをどう逃げたか、まんまと警官をまいてしまって、大阪の北へ現れた豹吉である。
 まいてしまったことは、ちょっとした自尊心の満足だったが、しかし、たった一つ残念だったのは、あの靴磨きの兄弟が自分を呼び停めようとして追いかけて来た時、立ち停ってやらなかったことであった。
 追われていたのだから、致し方がないというものの、しかし、そんなに警官につかまるのが怖かったかと思うと、われながら心外だった。
 いつもの豹吉なら、そんなに狼狽しなかった筈だ。そんなに警官を怖れなかった筈だ。
「ところが、今夜のおれと来たら……」
 と、豹吉は自分の醜態にあいそがつきるくらいだった。
「――なぜ、こんなに怖れるのか」
 と、考えて、豹吉はどきんとした。人を殺したからだ。
 早朝、渡辺橋の横で魚を釣っていた男(読者にはもはや明瞭と思うが、実は伊部恭助である)を、いきなり川の中へ突き落してしまったのだ。
 動機といっても、べつに大した動機ではない。ただ、
「何かこう人をあっといわすような、意想外の、破天荒なことをしてみたい」
 という単純な思いつきに過ぎなかったのだ。
 横紙破りの、ちょっと他人には真似ることの出来ないいたずらだったから、やってみると、快感はあったが、しかし、そのいたずらが結局殺人行為となってみると、いかな豹吉でも、さすがに薄気味悪い後味は心の底に残っていた。
 そして、そんな自分をあざ嗤っていた。
「なんや、怖がってるのンか。青蛇団のペペ公といわれるおれともあろうものが……」
 そう呟いた途端、豹吉は急にひょんなことを思いついた。
「――そや、もう一ぺん渡辺橋イ行ってやろう」
 豹吉は悠然と渡辺橋の方へ歩いて行った。
 犯罪をおかした現場へ行ってみるというのは、よほど度胸がいる――と、豹吉は思っていたが、実はそれが犯罪をおかした者に共通の一種の恐怖観念からであるのには、気がつかなかった。
 もう夜の十時に近かったから、朝と同じように、人通りのすくない橋のたもとに佇んで、豹吉はじっと川を覗きこんでいた。
「あの川の底であの男は死んでしまったのだな」
 と、ふと思うと、急にガタガタ足がふるえて来た。
「なんや、ふるえてるぞ」
 だらしがないじゃないかと自嘲していると、豹吉は急に持前の、人をあっといわせたいといういつもの癖が頭をもたげてむずむずして来た。

「人を驚かせるが、自分は驚かないのがダンディの第一条件だ」
 というおきてを守っている豹吉だった。
 だから、一たび、
「何か人をあっといわせるようなことをしてみたい」
 と、思うと、もう腹の虫がむずむずして来て、いても立ってもおられなかった。
「どんなことをして、人をあっといわせてやろうかナ」
 川を覗きこんでいた顔をきっと上げて、豹吉は豹のような眼を輝かせて、いきなり振りむくと、ペッと唾を吐いた。
 途端に、豹吉はどきんとした。
 渡辺橋の上を、警官が一人の女を連れて渡って行くのを、見たのだ。
 警官を見て、どきんとしたのではなかった。
 警官に連れられている若い娘を見て、驚いたのだ。
 手錠を掛けられて、警察へ連れられて行くのであろう、しょんぼりうなだれて、顔が半分かくれていたが、しかし、その美しく整った顔には、見覚えがあった。
 忘れもしない――いや、忘れられるものか――雪子だった。
 雪子――阿倍野橋の宿屋で小沢の帰りを待っていた筈の雪子が、小沢が著物を持って帰ってやったわけでもないのに、いつ、どうして宿の外へ出たのか。
 そしてまた、いつ、どこで、どんな悪いことをして、警官につかまってしまったのか。……
 雪子は小沢の帰りを待っていたが、到頭待ちくたびれて、しびれを切らしてしまったのだった。
 むろん、小沢にはもう一度会いたかった。
 が、それだけに、小沢が帰って来ることが、怖くもあった。
 小沢が帰って来れば、きっと、昨夜の裸の原因をきかれるに違いない。
 昨夜は頑として、答えなかったが、もう今日となってみれば、いつまでも黙っておるわけにはいかないような気がした。
 だから、小沢が帰って来て、そのことをきかれるのが怖かったのだ。
 それに一刻も早く宿を出たかった。
 といって、しかし、著物なしでは外へ出られない。
 思案に困って、ふと廊下へ出ると隣の部屋のドアがあいていて、女の著物が著物掛けに掛っているのが眼にはいった。
 部屋の中をうかがうと、誰もいない、その著物の主は、べつの著物と著かえて外出しているのだろう。
 ふと、魔がさした。
 雪子はふらふらとその部屋にはいると、著物を盗んで、自分の部屋に帰って寝巻を脱ぐと、その著物を素早く身につけた。
 そして、何くわぬ顔で、宿を出たが、間もなく宿ではその盗難に気がついて、警察へ届けた。
 すぐ手配が行われ、雪子は著物の柄が目印になって、つかまったのである。……
 雪子が阿倍野橋の宿屋で著物を盗んでつかまった――という、そんな事情は、もちろん豹吉は知らなかった。
 だから、なぜ拘引されて行くのか、咄嗟に考えてみても判らなかった。
 いや、考えてみる余裕もなかった。雪子がストリート・ガールだから検挙されたのかも知れない――と直感する余裕もなかった。
 豹吉の頭に泛んだことは、
「可哀想に警察へ連れて行かれるのだ。とにかく、たすけてやらなくっちゃ……」
 と、いうことだけだった。そのほかのことは、何にも泛んで来なかった。
 強いて言えば、雪子を警官の手から奪うという、大それた暴挙が「何か人をあっといわせるような破天荒なことを今直ぐしてみなくっちゃ、おれの気が済まない……」
 という、たった今さき腹の虫を動かせて来た不意の思いつきに、ピッタリ合っているではないかと咄嗟に自分に云いきかせる余裕だけは、さすがに残っていた。
 いや、それがあるからこそ、
「たすけよう」
 という気がますます強く起ったのだった。
 一旦こうしようと思えば、もうどんなことがあっても、あとへ引かぬのが豹吉の性質だ。
 豹吉はじっと息を凝らして雪子を連れた警官のあとをつけていた。
 警官は橋を渡ると、真っ直ぐ桜橋の方へ歩いて行った。
 雪子の白い手には手錠が痛々しく掛けられている。豹吉はその手からじっと眼をはなさず、
「まず、あの手錠を切ることやな!」
 と、ひそかに呟きながら、ついて行った。
「――しかし、あの手錠を切ることは、袂を切るよりは、ちょっとむつかしいぞ!」
 そう思ったが、しかし、困難ということほど、豹吉にとっては、実行への誘惑をそそるものはまたとないのだ。
「何くそ!」
 と、力んで、豹吉はいつもの蒼白い額を一層蒼白にしていた。
 雪子を連れた警官は、桜橋から右へ折れて、梅田新道の方へ歩いて行った。
 闇市はすぐ近くだ。
「雪子を奪って、闇市の雑踏の中へまぎれ込むのや」
 豹吉はひそかにそう呟いた。
 二人はやがて闇市の傍を通り掛った。
「今だ!」
 と、豹吉は叫んで、ズボンの中へ手を突っ込んだ。
 そして、いきなり足を進めて、すっと警官の背中へ寄って行こうとした途端、闇市の中からやって来た一人の男が、
「兄貴!」
 と、かけ寄って来た。
 亀吉だった。
「兄貴、ほんまに殺生やぜ」
 と、亀吉は口をとがらせた。
「――一体どこうろついてたんや。ほんまに探すのンに苦労したぜ」
「用事なら早く言え」
 豹吉は警官に連れて行かれる雪子のうしろ姿を、気にしながら、いらいらした声で言った。
「兄貴、わいに千円くれるという約束やったな」
「うん。おれを驚かせたらなア」
「兄責、びっくりしなや」
 亀吉はポケットから紙片を出して、豹吉に見せた。
「今夜十時中之島公園、図書館の前で待つ」
[#地から4字上げ]隼
[#ここから2字下げ]
 豹吉へ
二伸 亀吉の二千円は掏らせて貰った。
   悪く思うな。
[#ここで字下げ終わり]
 豹吉はちらと眼を通すと、表情一つ変えずに言った。
「なんや、これは……」
「なんや、これは……いうて、済ましてるどころやないぜ、兄貴、これ読んで、びっくりせえへんのか」
「お前に千円やるのはまだ惜しいからな」
 と、豹吉は笑った。
「ノンキやなア、兄貴は。これ、隼団からの果し状やぜ」
「判つてる。しかし、お前どうしてこれを……」
 手に入れたのかと、きくと、亀吉は、
「知らん間にポケットへはいってたんや。その代り、あの復員軍人に返そう思てた二千円掏られてしもた」
「間抜けめ!」
 と、豹吉はどなりつけたが、すぐ微笑して、
「――そやから、昼間ハナヤでお加代が云ったやろ。掏られんように気をつけろって……」
「あ、そやった!」
 と、亀吉は頭を押えると、亀のようにすっと首が縮んだ。
 豹吉は腕時計を見た。十時を三分過ぎていた。
「弱ったなア」
 と、豹吉は呟いた。
「――雪子をたすけるか、中之島公園へ行こうか」
 と、迷ったのだ。
 出来れば、雪子をたすけたかった。しかし、いくら雪子が好きでも、青蛇団の豹吉ともあろうものが、女のことにかけて、果し状を怖がって逃げたと思われるのは、辛かった。
「臆病者だと思われるのはいやだ。それに、雪子の行先は、どうせ警察だと判ってるんだ。たすけようと思えば、いつでも、たすけられる」
 中之島へ行こうと、豹吉は肚をきめた。
「亀公、じゃ、行って来るぜ」
 と、豹吉はかけ出そうとし
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