た。
「兄貴、待ってくれ」
「なんだ」
「兄貴一人で行くのンか」
「当りきや。心配するな」
 そう言ったかと思うと、豹吉はぱっと駈けだして行った。

 ノッポの一徳――豹吉の大股では、梅田新道より中之島公園まで、五分もかからなかった。
「豹吉のやつ、臆れて、よう来ないじゃないか」
 という気持を、一分長く相手に抱かせることは、十年自分の寿命を縮めるのと同じくらい、豹吉にとっては辛かったのだ。
 それほど、自尊心が強かったのだ。いや、自尊心以外に、何がこの男に残っているだろうか。
 だから、中之島公園の暗がりの中を一息に、図書館の前まで駈けつけた時、自分の到着を待っていたのは千日前の喫茶店の前で、自分を掏ろうとしたあの間抜けの掏摸一人ではなく、十数名に及ぶ隼団の団員だと判ると、豹吉は思わずにやりとしたくらい、ゾクゾグとうれしかった。
 いわば、向う見ずだといってもいい。
「豹吉、よう来た。用はきかなくても、判ってるやろ」
「うん」
 とうなずいた途端、豹吉はぐるりと取り巻かれてしまった。
 豹吉はその一人一人を見廻しながら急にぷっと噴き出した。
「何がおかしい」
「ようも、これだけ不細工な男を、よりによって闇市の目刺しみたいに並べたと思って、感心してるんだ」
「何ッ……? 生《なま》を言うな。散髪屋の看板写真みたいに、規格型の顔をさらしてると思て、うぬぼれるな。一寸は大人並みに歪んだ方が、人間らしいわい。自分で歪みたくなきゃア、こっちの手でお好みの型に歪ませてやるから、そう思えよ。それとも面の歪むのがいやなら、風通しの悪いその脳味噌に、風穴を一つあけてやろうか」
 拳銃を握った手がいきなり豹吉の頭へ伸びて来た。
「…………」
 豹吉は黙々として、その拳銃の先をじっと見つめていた。
「それとも、手をついて謝るか」
「…………」
「十かぞえる間に返答しろ」
「…………」
「一つ!」
「…………」
「二つ!」
 拳銃の先が少しずつ伸びて来る。
「三つ!」
「…………」
「四つ! 五つ! 六つ!」
 テンポが早くなった。
「七つ! 八つ!」
「…………」
「九つ!」
「九つ!」
 という隼団の龍太の声をきいた時、豹吉の頭に再び雪子の顔が、流星のようにふっと流れて、消えた。
「……雪子の面影を抱いて、死のう」
 と、咄嗟に思った。
 死ぬことは怖くなかった。いや手をついて謝るよりは、龍太の拳銃に射たれて、死ぬ方がいいと思った。
「おれは、今朝、人を殺したのだ。その罪のつぐないに、死のう!」
 このような想いが、瞬間、高速度の早取り写真のような速さで、はっと豹吉の頭に閃いた。
 豹吉は、カッと拳銃の先を見つめながら、
「射て!」
 と、言った。
 ――いや、言いかけた、と同時に、
「お待ち!」
 と、いう女の声が、聴えた。その声はまた、
「一〇!」
 と、最後の数字がさすがにふるえた声になって龍太の咽喉まで出掛っていたのと、同時でもあった。
 いわば、その場所にいた連中は、
「射て!」
「お待ち!」
「一〇!」
 という三つの声を、同時に聴いたのだった。
 豹吉ははっとして、声の方を見た。
「あ、お加代!」
 龍太もふり向いて、
「あッ!」
 お加代の右の手には拳銃が……。
 その拳銃は、龍太の背中に向けられていた。
 お加代は左の手で、唖の娘の肩を抱きながら、拳銃の引金に掛った右の手の指先に力をこめて、
「……豹吉を射つなら、射ってごらん。その代り、あんたの背中に穴があくわよ」
 と龍太に言った。
「しまったッ!」
 龍太は思わず、唇を噛んだ。
 隼団の連中は隙を見て、お加代に飛び掛かろうとした。
「じたばたおしでないよ」
 お加代はにやりと笑って、
「――命の惜しい奴は、動かない方がいいわよ。いいえさ、一寸でもあんた達の肩が動いてごらん、兵古帯のお加代の拳銃の玉は、十読む間も待たずに、飛び出して行くわよ」
 その時、
「兄貴! 安心せエ! 追いついたぜ!」
 と、声が来た。
 見れば、亀吉をはじめ、青蛇団の連中がかけつけて来たのだ。
 お加代をはじめ、青蛇団の連中はハナヤの前に落ちていた青い蛇の絵カードを見て、かけつけて来たのだ。
 そのカードの裏には「十時、中之島」と亀吉の下手な字が書かれてあった――と今ここで説明するのは、それこそ蛇足であろう。
 空には星が一杯……降るようなその星空に銀河が横たわって、大阪の一隅のこの出来事を、しずかに見下していた。

 中之島公園における青蛇団対隼団の緊迫した空気を、銀河が上から見下している間に、作者は大急ぎで話を少し前に戻すことにする。
 小沢はあれからどうしたのだろうか。
 あれから……というのは、つまり――。
 小沢は雪子への土産の寿司を持って、阿倍野橋の宿屋へ帰る途中、亀吉に会って、亀吉が小沢に返そうとして持っている二千円の金を掏られて、その代り隼団から青蛇団の豹吉へあてた果し状がはいっていたことを知った――それからのことだ。
 それから……。
 小沢は亀吉と別れて、宿へ帰った。
 が、雪子は既に宿にいなかった。
「着物がなくちゃ外へ出られない筈だのに、一体どうして著物を手に入れたんだろう」
 と、小沢は不思議に思う前に、まず、
「――あれほどおれの帰りを待ってるように、念を押したのに、どうして、おれに黙って出てしまったのだろう」
 と、腹が立った。
 いや、むしろ、寂しかった。
「こんなに、おれが著物のことで奔走しているのに……」
 という、何かすかされた気持から来る寂しさだけではなかった。
 待っていると思っていた雪子の顔が、見えないという寂しさだった。
 一夜を共に明しただけで、こんなに親しみ、いや、なつかしさを感ずるとは、一体どうしたことだろう。
 その一夜、雪子のからだには指一本触れなかったのに……。いや、むしろそれだからこそ、一層なつかしさがあるのではなかろうか。
 取りかえしのつかぬ気持だった。といっても、
「こんなことなら、昨夜なぜ雪子に強く出なかったのか」
 という、いやらしい未練ではなかった。
 雪子という娘の身のまわりに漂っている何か痛々しい、暗い、寂しい翳への、一種のノスタルジアに似た気持が、「もしかしたら、もうあの娘に二度と会えないのではないか」
 という意味での、取りかえしのつかぬ想いに、小沢をうろたえさせたのだ。
 ところが、女中の話では、
「昨夜ご一緒に来やはった女の方、あれは本|真《ま》の奥さんと違いまっしゃろ――。あの女はこれでっせ」
 と、人差指をクの字に曲げるのだった。
 手癖が悪い――泥棒だというのである。
 驚いて、きくと、隣の部屋の女客の著物を盗んで逃げたというのである。
 しかし、そうきいても、小沢は雪子に失望したり、急にいやになったり、するようなことはなかった。
 むしろ、何だかますます可哀想なような気がするのだった。
 小沢は宿屋を飛び出すと、雪子の行方を探して歩いた。
 が、夜になっても、雪子の姿を発見することは出来ず、空しく探しているうちに、夜の十時を過ぎた。
 小沢はふと亀吉のポケットにはいっていた果し状のことを思い出すと中之島公園へ駈けつけて行った。
 小沢が中之島公園の図書館の前へ駈けつけた時は――。
 豹吉を取り巻いている隼団の連中を兵古帯のお加代をはじめ青蛇団の連中が取巻き、龍太の拳銃とお加代の拳銃が虚々実々の阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《あうん》の呼吸をはかりながら、今にも火花を散らそうとしていた。
「諸君!」
 と、小沢は声をかけた。
「誰や、お前は? ……どこのどいつや」
 と、隼団の一人が言った。
「僕は一介の復員兵士だ」
 と、小沢は言った。
「――僕は君たちのように、龍だとか豹だとか虎だとか、親のつけた平凡な名前以外の名前を持っておらん。また、青蛇だとか、隼だとか、まるで動物園まがいの団体にも加盟しておらない」
「何ッ……? お前らの出る幕やない。引っ込んでろ」
 と、一人が叫んだ。
 小沢は平然として、物凄く速い口調で喋り立てた。
「なるほど、僕は出番をまちがえて、他の役者の出る幕の舞台へ飛び出した間抜け役者かも知れない。しかし、とにかく舞台へ飛び出したのだ。何とか科白を喋ってから引き下るということにしなければ、恰好がつかないし、今更引っ込みもつかない」
「じゃ、何を喋りに来たんや」
「結論を先に言おう」
 と小沢はじろりと一同を見廻して、
「――喧嘩というものが、いかにくだらぬものであるかということを、君たちに納得させたいんだ」
「大きにお世話や。引っ込んだらどうや」
「まア、聴け! 日本人はかつては、暴力や喧嘩沙汰の好きな国民だった。だから戦争をおっぱじめて、こんなみじめなことになってしまったんだ。ところが君たちは、これからの日本の再建に一番重大な役割を果さなきゃならない君が、今なお暴力や喧嘩を好み、腕力でことを決しようとしている」
 小沢はいつか演説口調になっていた。
「――こんなことで、一体どうなるんだ。しかも、君たちの中には、携帯を禁じられている銃を、持っている者もいる。君たちは瀕死状態の日本を、ますます窮地に陥入れたいのか」
「…………」
 誰も答えなかった。小沢はつづけた。
「世には、暴力を以てしか解決できないような問題は、何一つとして存在しない筈だ。撲らなきゃ判らないというのは、もう昨日の日本人の言葉だ。今日の日本人は、人を撲ったり、傷つけたり、殺したりする野蛮な手を封じられた代り、口を使ってする自由は許されている。口は飯を食うためのものだ。が、飯は腹一杯食べられない。だからといって、口の用途を十分発揮できないというわけではない。いや、接吻のことを言ってるのじゃない」
 クスリという笑い声が起った。
「――僕の言っているのは、言論の自由ということだ。君たち、喧嘩をするくらいだから、むろん双方とも言い分があるんだろう。どちらの言い分が正しいか。僕は第三者としてきいてあげるから遠慮なく言ってみたまえ」

 小沢は頬に微笑を浮べながら、言葉をつづけた。
「――諸君は僕をおせっかいと思うだろう。たしかにおせっかいだ。しかし、おせっかいにならざるを得ないのだよ。日本のことを心配するからだ。なるほど、他人のことは放って置けばいいのかも知れない。日本人は島国根性で、偏狭で、すぐ他人のことをとやかく言いたがる。小言幸兵衛が多すぎる。しかも僕は復員したばかしで、明日の米、いや、今日の米にも困る人間だ。他人のことは――いや、他人のことにかかわっている余裕すらない人間なのだ」
 そこで小沢はまた一同を見廻して、
「――しかし、げんに暴力沙汰が行われようとしているのを見ながら、放っても置けないじゃないか。だから、おせっかいを買うて出たわけだが、もし、諸者が僕の言ってることの十分ノ一でも判ってくれたら、とにかく、諸君の言い分を言いあったらどうだ。――誰からでもいい。どうだ君は……。何か言い分があるだろう。言ってみ給え!」
 小沢は隼団の龍太を指した。
 が、龍太は咄嗟に返答できず、あっけに取られながら、苦笑していた。
「君はどうだ……?」
 小沢は豹吉を指した。
「言い分……? そんなもん、ちゃんちゃらおかしくって、言えるか」
 豹吉はペッと唾を吐いた。
「君はどうだ……?」
「…………」
「君はどうだ……?」
「…………」
「君は……?」
「わては、何にもおまへん」
 と、亀吉は頭をかいた。
「君はどうだ……?」
「…………」
 そして、最後に唖の娘をさして、
「君は……? 言い分は……?」
「…………」
 無論、彼女はだまっていたが、お加代は傍から、
「あっても、この娘は言えやしないよ。この娘は唖だよ」
 と吐きだすように言った。
 小沢ははっとして、薄闇をとおして唖の娘の顔を見た。
「あ!」
 見覚えがある。
 梅田の食堂から刺青の男に連れられて行った娘だ。
 小沢はじっと見つめていたが、やがて一同の方を向くと、
「じゃ、みんな言い分がないんだね。言い分がないとすれば、喧嘩する理由
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