てみた。
「――豹吉!」
 その言葉は、無論唖の娘には聴えなかったが、お加代はさすがその娘の手前、恥かしそうに首筋まで赧くなった。
 お加代は抱いていた手にぐっと力を入れて、豹吉の想いを引寄せるように、その娘の肩を引き寄せると、
「――東京で焼け出され、大阪へ流れて来て……」
 と、さっきの話を続けた。
「――馴れぬ大阪でうろうろしているところを、親切に話しかけて来たのが、あんた、誰だと想う……?」
「…………」
 唖の娘には無論答えられない。
「あの針助だったのさ!」
 お加代は投げ出すように云った。
「――二階を貸してやるというので、これ倖いとついて行ったら、なんと女気なしの針助の一人世帯、ちいと薄気味わるかったけど、今時空間なんて貸してくれる人は、ざらにいるわけじゃない。早速二階を借りたところが、ある夜到頭……、いえ針助は女なんかに興味のある男じゃない。何もされなかったが、その代り刺青をされてしまったのさ」
「…………」
「刺青をされるまでは、真面目なタイピストだったけど、会社でちらちら腕の青いところが見えてはもうおしまい、どこへ行っても使ってくれず、背中に背負った刺青という重荷が、到頭あたしの一生を圧しつぶしてしまったのさ。つまり、刺青にものを云わせて生きて行く生活しか、あたしに残らなかったのさ」
 兵古帯のお加代の眼はまたうるみ、声もうるんだが、あわてて自嘲的な笑い声を立てて、
「――あら、随分喋っちゃったわね。あんた聴いてた。聴えなかったの。可哀想に……。でもね、聴えないからこんな愚痴を喋ったのよ」
「…………」
「さア、来たわよ」
 あたりが急にぱっと明るくなり、やがてハナヤの店先だった。
「豹吉は昼間靴みがきの子を連れて来たっけ。こんな風に……」
 と、想い出しながら、中へはいりかけた時、お加代ははっとした。
 入口に蛇の絵を描いた紙片が落してあったのだ。
 蛇の絵の紙片が落してあれば……青蛇団の仲間に告げる――。
「危機!」
 の暗号なのだ。

 その頃――。
 もっと正確に云えば、ガマンの針助が兵古帯のお加代と別れて、鴈治郎横丁から出て行った頃――。
 次郎と三郎は豹吉を追いくたびれて、というより、豹吉の姿を見失って、難波の闇市の食堂の軒先にある職場へ戻って来た。
「なんぜ待ってくれへんかったんやろなア」
「逃げんでもええのになア」
「なんぜ逃げるんやろなア」
「わいらに掴まったら、もう一ぺんハナヤをおごらされる思てやろか」
「阿呆ぬかせ」
 と、言って、ふと声をひそめて、
「――ひょっとしたら刑事に追われたンかも判れへんぞ」
「へえ? ほな、掴まって、カンゴク行きやナ」
「掴まるかどないか、まだ判るけえ!」
「うまいこと逃げてくれたら、ええのになア」
「うん」
「しかし、兄ちゃん、掏摸テぼろい商売やけど、怖いなア。カンゴクへ行かんならん。兄ちゃん、それでも掏摸になるか」
「…………」
 次郎はだまって、考えこんでいたが、やがてひょいと足許を見た途端、唇まで真青になった。
「三郎《サブ》公、えらいこっちゃ、銭がない」
「えっ……? ほんまか」
 と、三郎は金入の空罐を覗きこんだ。
 空っぽだ。
「盗まれたッ!」
 次郎はきっと唇を噛んで、起ち上った。そして口惜しそうに前方を睨みつけながら、
「――畜生! どいつが盗みやがったんやろ。ひどいことをしやがる」
「兄ちゃん、交番へ届けたら、あかんやろか」
 三郎は半泣きの声になっていた。
「阿呆! 交番へ届けても戻るもんか。強盗もよう掴まえんのに……」
「どないしたら、ええやろ」
「…………」
 もう次郎は答えなかった。
「一銭も持たんと、帰るンか」
「…………」
「いややなア。こんなことなら、ハナヤで美味いもン食べた方がよかったなア、盗まれるより、その方がなんぼええか判れへん」
「…………」
 次郎は棒のように突っ立っていたが、やがてきっと眼を輝かせると、
「三郎《サブ》公、おれ掏摸になるッ!」
 と呶鳴るように言った。
「えッ……?」
「正直に靴みがきして、母ちゃんを養うてても、悪い奴にみな金を盗まれてしまうやないか。こんな損なことがあるもんか。正直に働いたら、阿呆な眼を見るだけや。よしッ! もうこうなったらやけくそや。掏摸になる」
 次郎はそう言って、きっと前方を睨みつけた時、一人の著流しの男が通り掛った。鴈治郎横丁を出て来たガマンの針助だった。
「よしっ! あの男を掏ったるッ!」
 次郎はそれと知らずにガマンの針助の袂へじっと眼をつけた。

 ガマンの針助の袂は、中へ入れたものの重みで、だらんと下へ垂れていた。
「あの中に財布がはいっとるのや」
 次郎は子供ながらそう睨んで、
「――おい三郎《サブ》公、ついて来い」
 と、声をひそめて云いながら、針助のあとをつけて行った。
 三郎は、
「うん」
 という声も出ず、唇が真青になるくらい緊張して、ブルブルふるえる足で、次郎のうしろからついて行った。
 針助はゆっくりした足取りで、戎《えびす》橋通を北へ真っ直ぐ、電車道へ出ると、地下鉄の入口の灯が夜光虫のように夜のとばりの中で、ひそかに光っている上本町六丁目行きの停留所の方へ、折れて行った。
 停留所には十人ばかり客が列を作って、電車を待っていた。
 針助はその一番うしろへ並んだ。
 ひそかにつけていた次郎は、何くわぬ顔で針助のうしろへ立った。三郎はカチカチ歯を鳴らしながら、不安そうに次郎により添うた。
 そして、そっと次郎の袖を引いて、
「兄ちゃん、掏摸になるのン、やめとけ!」
 と、眼まぜで知らせたが、次郎は、
「…………」
 だまって首を振って、じっと針助の袂をにらんでいた。
 しかし、さすがに手は出せなかった。針助に隙がないのか、いや、次郎に勇気がないのだ。おまけに、袂へ手を入れるきっかけがない。
「今や、今や、手エ入れるんやったら、今や」
 と、いたずらに頭の中で叫んでいたが、しかし、いくら掏摸になるんだとやぶれかぶれの覚悟をきめても、はじめての経験では、他人の袂に無断で手を突っ込むということは、よほど魔がささねば出来なかった。
 悪の魔――次郎にはまだそれが訪れて来ないのだ。
 ところが、やがて電車が来て、並んでいた人々が動き出し、針助も二三歩前へ進みかけた途端、次郎は何かあわてて、いきなり針助の体を押すように、ぺたりと背中へ自分の体をつけた。
 その拍子に次郎の手が針助の袂に触れた。
「今や……」
 次郎は眼の前がぽうっと霞んだ。そして何もかも無我夢中だったが、はっと気がつくと、
「こいつッ!」
 と、針助の声を水のように浴びていた。
 次郎の手は針助に握られていた。
「あっ!」
 と、驚いたのは、次郎よりも三郎の方だった。
 三郎はものも言わずに駈け出そうとした。
 が、針助の手はいきなり伸びて三郎の首筋を掴んでしまった。
「お前もやな……?」
「…………」
「お前も来い!」
 針助は次郎と三郎を両手でひきずるようにして、電車に乗せてしまった。
 ――咄嗟の間の出来事だった。
 電車は案外混んでいなかった。
 針助はあいた席を見つけて、次郎と三郎を自分の両脇に坐らせた。
 次郎と三郎はそれぞれ片手を針助にぐっと握られながら、死んだようにぐんにゃりとなっていた。
 日本橋筋一丁目を過ぎたのも知らなかった。
 生魂《いくたま》の石の鳥居のある下寺町を過ぎたのも知らなかった。
 下寺町の暗い焼跡の坂を、登って行くと、やがて電車は上本町六丁目に着いた。
「ここや」
 針助は次郎と三郎をうながして、出口の方へ行くと、次郎をつかまえていた右手を離して、金を払おうとした。
「逃げるンやったら今や」
 次郎ははじめて意識を取り戻して、そう呟いた。が、三郎を残して、自分ひとり逃げては、三郎は可哀想だと思って、じっとしていた。
 そして、金を渡した針助が、再び次郎の手首を掴もうとすると、次郎の方から手を出したくらい、もう何もかも素直に諦めていた。
 針助は電車を降りると上本町八丁目の方へ歩いて行った。七丁目の、もと停留所のあったところに、交番の灯が見えた。
「向うへ連れて行くんやな」
 次郎と三郎はお互の青ざめた情けない顔を見合ったが、針助は黙々として、その前を通り過ぎた。交番の中では、若い少年巡査がきょとんとした眼で、こちらを見たが、べつに誰何しようともしなかった。
 次郎と三郎はほっとした。そして、
「一体どこイ連れてゆくんやろ」
 と思って引きずられて行くと、外語学校前を東へ折れ、四ツ辻まで来ると、南へ曲った。
 そして半町も行った頃だろうか、門燈のあかりが鈍く点っているしもた家の前まで来ると、針助は立ち停った。
「ここや」
 針助は袂から鍵を出して、玄関の戸をあけると、
「――はいれ」
 家の中はひっそりとして、人の気配はなかった。針助の一人ぐらしの家らしい。
 それがかえって、薄気味わるかった。
 次郎と三郎は二階へ連れて行かれた。
 そして、六畳の部屋へ入れられると、針助はカチッと錠をおろして、出て行った。
 階下へ降りて行くらしい針助の足音を聴きながら、三郎はひそひそした声で言った。
「兄ちゃん、どないなるネやろなア」
「さアなア……」
「カンゴクへ行って、赤い著物著んならんか」
「サアなア……」
「母ちゃん今頃どないしてるやろなア」
「分ってるやないか。わいらの帰り待ってるにきまってる」
「母ちゃん心配してるやろなア」
「うん」
 次郎は半泣きの声になっていた。
 その時、階段を登る足音が聴えて、やがて針助がはいって来た。

 はいって来た針助は、ブルブルふるえている次郎と三郎の前に、どっかりと坐ると、
「どや、お前ら腹がすいたやろ」
 と、例の女のようなネチネチした口調で言いながらにこにこと笑っていた。
 次郎と三郎には思いがけぬやさしさだったから、ほっとして、
「うん」
 と、うなずくと、針助はふところからパンを出して、
「パンをたべろ」
 次郎と三郎は顔を見合せた。
「どないしよう」
「食べよか」
「うん」
 眼で語って、二人は同時に手を出したかと思うと、あっという間に口の中へ入れてしまった。
 腹の皮がひっつくくらい、ペコペコになっていたせいか、涙が出るほど美味かった。カンゴクへ連れて行かれるかも知れないという恐怖を、ふと忘れるくらい、無我夢中で食べてしまって、きょとんとしていると、
「どや、美味いか。ほしかったら、もっとあるぜ」
 と、針助はまたパンを出した。
 次郎はふと、
「このパンを母ちゃんに持って帰ってやったら……」
 どんなに喜ぶだろうと、思った。が、果して無事に家へ帰れるかどうか。
 しかし、三郎はさすがに年が幼かった。何も考えずに、あっという間にパンを口の中へ入れて、のどにつまり、眼を白黒させていた。
 そんな二人の容子をにやにやしながら、針助は、
「お前ら、まだ新米の掏摸やろ」
 と、言った。
「…………」
「下手くそやぞ、お前らの掏り方は……」
「今夜はじめてだす」
 次郎は蚊の鳴くような声を出して、
「――かんにんしとくなはれ、大将」
 と、ぺこんと頭を下げた。
「はじめてや……?」
 と、針助はにやにやして、
「――そやろ、新米でなかったら、あんな下手な掏り方はせん。どや、おっさんが一つ仕込んだろか」
「えっ……?」
「おっさんとこイ、来たらいつでも仕込んだる。一人前の掏摸になるネやったら、おっさんの云うことをきいたら、間違いない。まず刺青をするこっちゃ。ええ顔の掏摸になれるぜ」
「…………」
「どや、もっと食べるか」
 と、針助はまたパンを出した。
「おっさんとこイ来たら、いつでもパンを食べさせたる」
「おおけに……」
「それから……」
 と、にやりと笑って、
「――刺青をしたる」
「えっ……?」
 刺青ときいて、次郎と三郎はまるで腰を抜かしてしまった。
「刺青はして貰わんでもかめしめへん」
 次郎はあわてて言った。
「なんぜや」
 と、ガマンの針助は云った。
「なんぜかテ……。刺青みたいなもンしたら
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