美味いもんは食べられるし……。フズーズボンチでも何でも……」
「阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい」
 次郎はさっきと同じように、弟を叱りつけたが、ふと溜息をつくと、
「――しかし、三郎《サブ》公、どう考えても掏摸テぼろいな。人の靴のドロとっても一円にしかなれへんけど、掏摸はまるどりやさかいな」
「ほな、掏摸になったらええなア」
「…………」
「兄ちゃん、掏摸になって、わいに兄ちゃんの靴みがかして、二人前の金払ってくれて、ハナヤおごってくれたら、ええなア。兄ちゃん、掏摸になりイ」
「ふーん」
 次郎は子供のくせに腕組みをして考えたが、やがて、
「――いや、やっぱし止めとこ。掏摸テええことと違う。強盗と同じこっちゃさかいな」
 そう言った時、次郎ははっと眼を輝かせた。
 自分の眼の前を、追われるように夢中で駆けて行く男の姿を見たのだ。
 豹吉だった。
「あッ、掏摸さんだッ!」
 次郎は思わず叫んだ。咄嗟に亀吉から頼まれたことづけを思い出した。
 そして、三郎と一緒に、
「掏摸さん、掏摸さん、兄貴、兄貴!」
 と呼びとめようとした。
 もっとも、亀吉からのことづけがなかったとしても呼びとめたに違いない。
 なつかしかったのだ。ハナヤの事が忘れられぬのだ。
 しかし、豹吉は立ち停ろうとしなかった。
 警官に追われていたのだ。
 次郎と三郎は、商売道具を放ったらかしてあとを追うた。
 必死になって逃げ行くあとを必死になって、どこまでも追うていった。
 ところが、その留守中……
 職場――という言葉は、かつて我々に使い古されて、汚れた豆債券のような感じがして、いやなのだが、ほかに適当な言葉はないし、次郎、三郎にとってもまさしく職場であるから、職場ということにするが……。
 二人の職場へ、一人の少女が黙々として近づいて来た。
 黙々として――といったのは、実は、その少女は唖なのだ。
 読者には、もはや明瞭だろう。――梅田の闇市場の食堂から、怪しげな刺青の男に連れ出された例の唖の娘だ。
 彼女はそっとあたりを見廻すと、素早く罐の中へ手を突っ込んだ。
 そして今日一日の次郎、三郎の儲けの金を鷲《わし》掴みにしたが、瞬間びっくりしたように飛び上ると、ブルブルふるえる手で、その金を罐の中へ戻した。
 そして、暫らくふるえながら佇んでいたが、思い切ったように、もう一度手を突込んだ。
 やはり手がふるえた。が、こんどは札束を掴んだ途端、彼女はうしろも見ずに、ぱっと逃げ出した。
 歯がカチカチと鳴った。ふるえが停らぬのだ。
 そのまま、鴈治郎横丁まで逃げて来た時、
「ちょっとお待ち!」
 と、いきなり、肩を掴まれた。
「…………」
 ぎょっとして振り向いた。
 肩を掴んだのは「ヒンブルのお加代」――またの名「兵古帯のお加代」だ。
 相変らず前髪を垂らし、薄暗がりで黒色に見えるが、兵古帯の色はいつも紫だ。
「う、う、う……」
 うめくような、恐怖の声を、唖娘は痩せた喉から絞り出した。
「その手のものをお出し!」
 お加代は、札束を鷲掴みにした娘の骨だらけの手を鋭く見た。
「う、う、う、……」
「お出しといったら、お出し」
「…………」
「黙ってちゃ埓が明かないわよ」
「何を、唖じゃあるまいし……」
「う、う、う、……」
「じれったいわね。出さなきゃ、ふんだくるわよ」
 お加代はいきなり相手の手を掴んだ。
 その時、一つの影がすっと鴈治郎横丁へ[#「鴈治郎横丁へ」は底本では「雁治郎横丁へ」]はいって来た。

「う、う、う、あッ、あッ、あッ……」
 唖の娘はお加代に手を捩じられて、鳥のような奇声を出した。
「何さ、変な声を出して……」
 そう言いながら、お加代は娘の手から札束を掴み取ったが、薄暗がりですかしてみると、十円札は一枚しかなく、あとは五十銭札と一円札ばかり、全部で三十円にも足りなかった。
「なんだ。これっぽっちか」
 お加代はぺっと唾を吐いた途端に、
「あ、これは豹吉の癖だったっけ」
 と、にわかに豹吉のことを想い出した。
「――豹吉はどこにいるかしら。亀公が探していたっけ」
 いや、探していたのは、亀吉だけではない。お加代もひそかに豹吉の居所を探していたのだ。――会いたかったのだ。
 昼間、ハナヤで別れたきりの豹吉に、もう無性に会いたくて仕様がない。
 自分には振り向いてくれようとしないくせに、あのストリート・ガールにのぼせているような豹吉なんぞに、こんなに会いたいなんて、一体どうしたことだろう……。
「ヒンブルのお加代ともあろうものが……」
 と、そんな自分がいじらしいと思う前に、まず腹が立って、だから、一層いらいらした声で、
「あんた、これっぽっちしか持ってないの?」
 と、娘を睨みつけた。
「…………」
「返事ぐらいしたら、どう……?」
 お加代はいきなり娘の頬を撲りつけた。
 娘はキョトンとした眼で、撲られたあとを押えもせず、お加代を見上げていた。
「何さ、その平気な顔は……」
 もう一度撲ろうとすると、
「おい、お加代!」
 と、声が来た。
「――堪忍してやれ、そいつは唖やぜ」
 そう言いながら寄って来たのは、例の刺青の男だ。
「え……? 唖だって……? 本当かい、針助さん」
 針助という名を記憶している読者がいる筈だ。
 いやもっと記憶の良い読者なら「ガマンの針助」という名でおぼえている筈だ。
 更に、昼間、ハナヤでお加代が豹吉に、雪子が昨夜拾った男が「ガマンの針助」だと、語って、危く豹吉を狼狽させかけたことを、おぼえている読者もあろう。
 ガマンとは、大阪でいう刺青の方言だ。だから、刺青の針助と書いてもいいわけだ。
「本当かい……テ、お前もよっぽど勘が悪いな。唖でなかったら、一言くらいものを言う筈やろ」
 針助はお加代に言った。
「――その金は返してやれよ」
「唖からとるのはいけないって、いうの……?」
「そやない。実は、こいつ今日から、身内になりやがったんや」
「仲間に……? この唖が……?」
 お加代は思わずきいた。

「そや、今日から青蛇団の一員や。おれも仕込むが、おまはんもよう仕込んだってくれ」
 ガマンの針助は、キョトンと突っ立っている唖の娘の方を見ながら兵古帯のお加代にそういった。
「へえ……? あきれた。こんな唖が使いものになるの……?」
 お加代は吐出すように言った。
「――青蛇団も随分相場が下落したわね」
「まア、そう言うな。これでも……」
 と、針助は唖の娘をまるで品物か何かのように指して、
「――唖は唖だけの取得があるかも知れんぜ。それに、こいつ案外すばしこいとこがある。今日ちょっと仕込んだだけで、ちゃんともう一仕事しよった」
「あ、この端た金が……」
 そうなの? ……と、お加代は唖の娘からまき上げた金を、未練気もなく針助に渡した。
 針助はだまって、それを唖の娘の手に握らせてやると、娘はにやりと微笑んで、何度も何度も勘定するのだった。
 久しく金というものを、手にしたことがないのだろう。
 お加代はふっと顔をそむけて、自己嫌悪に襲われた。
 針助はにやりと笑って、薄気味の悪い、女のようなネチネチと優しい声で、
「今はこんな端た金でも、もうちょっと仕込んだら、今に背中の刺青にものを言わすようになるやろ」
「じゃ、あんた、もうこの娘っ子に……」
 と、お加代は顔色を変えた。
「――刺青をしてしまったの……?」
「うん」
「一体、どこで拾って来たの」
「梅田の闇市や。飯を食べさせるったら、喜んでついで来よった」
 針助はうふふ……と、下卑た笑い声を立てた。
「ごはんで釣って、こんな口も利けない娘ッ子に……」
 と、お加代はきっと唇を噛んだ。
「――うむも言わさずに、刺青をするなんて、実際ひどいことをするのね」
 針助を睨むように見ると、針助はふと狼狽の色を見せたが、やがて急に笑い出して、
「あはは……。永いこと刺青をせんからな。たまにはこういう大人しい娘の肌に、思う存分針を入れんと、淋しゅうて仕様ない。今日は久し振りにたんのうした。えへ、へ……」
 そして、唖の娘の方を向いて、
「――おれも随分大勢の肌に針を入れてきたが、今日お前の背中にしてやった刺青ほど、会心の針はなかったんやぜ。誰に見せても恥かしゅうない刺青や。お前の背中は何万円出しても買えん背中やさかいな、口はものをいわんでも、背中にものをいわすような、一人前の姐御になりや」
 と、くどくどといいきかせるようにいった。
「う、う、う……」
 娘はただ奇声を発しただけだった。
「あはは……。そやった。言うても聴えんのやったな」
 と、針助は苦笑すると、お加代に、
「――ほな、この子を頼んだぜ」
「いやよ」
 お加代が言った時は、しかし針助はもう娘を残して一人でスタスタと歩き出していた……。

「ちょっと、ちょっと、困るわよ。あたし……」
 兵古帯のお加代は針助のあとを、バタバタと追うて行って、
「――あんな子あたしに預けてどうするのさ。困るわよ。――ちょっと、針助さん!」
 呼びとめようとしたが、しかし、針助はふり向きもせず、鴈治郎横丁から姿を消してしまった。
 お加代は諦めて、唖娘の方へ戻って来た。
「…………」
 唖の娘は、もう自分はお加代について行くよりほかにないと、きめてしまったように、ちょぼんと薄暗がりの中に立って、お加代が自分の所へ戻って来るのを待っていた。
 そのいじらしい孤独な容子が、さすがにふっとお加代の胸を温めた。
 お加代はいきなり娘の肩に手を掛けて、
「御免ね。さっき撲ったりなんかして……」
 と、謝るように言うと、無論それは聴えなかったが、気持は通じたのか、痩せた首を二度、三度たてに振って、
「う、う、う……」
 奇声を発しながら娘はふっと微笑んだ。
「あんた、おなか空いてるでしょう。何か食べようよ」
 お加代は娘の肩に手を掛けたまま、ハナヤの方へ並んで歩いて行きながら、
「――本当にひどい眼におうたわね。あの針助って奴はね。ガマン(刺青)の針助といってね。刺青にかけては西では一番という名人なんだけど、ああいう名人に限って、悪い癖があるのよ。人間さえ見たら、刺青をしたくてたまらないのよ。つまり刺青のマニアっていう奴ね」
「…………」
「いやがるのを無理に、脅したり、すかしたり、甘言を弄したりして、家へ連れこんでは、麻薬をかがせて、刺青をしてしまうのよ。あいつのために刺青をされた人間がどれだけいるか判りゃしないわよ。あたしだってその一人さ。――あんた、聴いてる……?」
「…………」
 唖の娘は相変らずキョトンとして、前髪の下ったお加代を見上げていた。
「そう、あんたは聴えなかったわね」
 お加代は苦笑したが、ふと思いついたように、
「――そうだわ。あんたの耳が聴えるのだったらこんな話はしないわよ。聴えないから、するのよ」
「…………」
 お加代の顔を見上げた娘は、お加代の眼がうるんだのを見てびっくりしたような表情になった。
「あたしだって、あの針助に刺青さえされなきゃ、こんな女にならなかったわよ。あたしだって、東京にいた頃は、真面目な娘だったのよ。同性愛も出来ないくらい、コチコチの箱入娘だったのよ。それが東京で焼け出されて一人で、大阪へ流れて来て……」
 その時のことを想い出すようにふっと空を見上げると、降るような星空だった。
「ああ。きれいなお星様」
 呟いた時、ふと星が流れて、青い光がすっと斜に、あえかな尾を引いて、消えた。
 お加代はしみじみと、星の流れるあとへ遠い視線を送りながら、
「……お星様が流れている間に願いごとを祈ると、かなうというけど……」
 と、ひとり言のように呟いていると、ふと思いがけぬやるせなさに、胸がしめつけられた。
「――願いごとって、どんなことだろう」
 と、その胸の底を覗きかけて、お加代はあわてて想いをそらしたが、しかし、星が見ていた。星に胸の底を覗かれてしまったのだ。
「ままよ。どうせ覗かれたんだもの」
 そう思って、お加代は、
「――豹吉!」
 と、小さく声に出し
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