上方のそれではなかった。どこからか大阪へ流れて来た女らしい。
「いや、いらん」
 食堂だと思ったが、夜はカフェに変るのだろうか、いや、朝っぱらからもうカフェじみているわいと思いながら、小沢はぶっ切ら棒に断ったが、ふと思い出して、
「――それより、にぎりを持って来てくれ」
 十五円のライスカレー一皿では、腹が一杯にならなかったのだ。
「にぎり一チョウ!」
「あ、二皿にしてくれ」
 と、小沢はあわてて言った。
「――土産にするから、包んでくれないか」
 阿倍野橋の宿で待っている雪子のことを、想い出したのである。
 雪子も昨夜から何も食べていないのだ。だから、自分で食べるより、雪子のところへ早く持って行って、食べさせてやりたかった。
 が、飯はこれで出来たが、著物はどうすればいいのか。
 売り払って著物の金にかえる筈だった荷物は、しかし駅でなくなってしまった。
「弱ったな」
 げっそりした声を出して、小沢は思わず呟いた。
 手ぶらで帰れば、雪子は今日も宿を出られず、昨夜と同じように一つの部屋で明かさねばならない。
 よしんば、それは我慢するとしても、もう宿賃の払いが心細いのだ。
「昨夜、細工谷なんか歩いたばっかしに、おれも苦労するわい」
 小沢は夜更けの雨の中で、一糸もまとわぬ雪子にいきなり出くわした時のことを、想い出しながら、苦笑した途端、ふと細工谷町の友人のことに気がついた。
 その友人は独身だったが、案外細君を貰っているかも知れない。よしんば独身にせよ、たしか妹がいた筈だ。
「そうだ、あいつに頼んで、女の著物を借りるより手がない」
 小沢はにぎり寿司の包みを受け取って、勘定を払うと、その食堂を出たが、どこをどう抜ければ、駅前の停留所へ出られるのか、はじめてのこと故さっぱり見当がつかず、迷宮のような闇市場の中をぐるぐる廻ったあげく、やっと抜け出してみると、そこは梅田新道通りだった。
 小沢は苦笑しながら、阪急の方へ歩いて行って、やっと今里行の市電に乗った。
 市電は混んでいた。
 北浜二丁目で十人ばかり降りたので、小沢はいくらか空いている出口の方へ詰めて行こうとして、ひょいと見た途端、
「あッ!」
 と思った。
 出口に近く、釣革にぶら下っている腕を見たのだ。
 青い刺青の腕だ。その横にさっきの唖の娘が乗っていた。
 やがて、電車が上本町六丁目に著いたので、小沢が降りようとすると、その刺青の男も娘と一緒にそこで降りた。
 作者はここでいささか註釈をはさみたい。
 ――偶然というものは、ユーモアと共に人生に欠くべからざる要素である。
 ユーモアのない人生なんて、凡そ糞面白くないものだが、同時に、人生から偶然というものを取り除いてしまえば、随分味気ないことになるだろう。
 しかも、偶然の面白さというものは、こいつが続き出すときりがないという点にある。
 余り上品でない比喩を使って言えば、偶然というやつは、まるで金魚の糞のようにゾロゾロと続くものなのである。――
 例えば……。
 小沢十吉がたまたまはいった梅田の闇市場の食堂で、刺青をした男が唖の浮浪少女と連立って出るところを目撃した――という偶然は、ただそれだけでは大したこともないと言えるが、やがて乗った市電の中に、その二人も乗り合わせていたという偶然と折重ってみると、既に何となくただごとでなくなって来る。
 少くとも小沢は、何かしら得体の知れぬ予感を感じて、どきんとした。
 果して、刺青の男と唖の娘は、上本町筋を真っ直ぐ北へ行くかと思うと、八丁目の外語学校の前を急に東へ折れ、上ノ宮中学の前を通り細工谷の方へ歩いて行くではないか。
 このコースは昨夜小沢が土砂降りの雨の中を歩いて行ったコースであった。
 そして、今小沢はその同じコースを辿るのである。
 自然、小沢はその二人のあとを尾行するといった形になったが、勿論、尾行するつもりで歩いて行ったのではない。
 小沢はただ細工谷町の友人を訪ねるために、その道を歩いているというに過ぎなかったのだ。
 ところが、刺青の男と唖の娘が、昨夜小沢が雪子と出会った四ツ辻まで来て、いきなり北へ折れて行くのを見ると、
「おやッ!」
 と、思って、友人の家へ行く道を急に変えて、その二人のあとを尾行する気になった。
 刺青の男は、半町ばかり行くと古風なしもた家の前で立ち停った。
 そして、手真似で唖の娘をうながすと、その家の中へはいってしまった。
 ひそかに尾行していた小沢は、何気なくその家の前を通り過ぎざまに、ちらと標札の文字を見上げた。
「横井喜久造……」
 その名前を記憶の中に入れて、小沢は四ツ辻までひきかえした。
 そして、そこから二丁ばかり東へ行くと、友人の家があった。
「伊部恭助」
 稍左肩下りの、癖のある、しかし達筆の字で書かれた標札を見た途端、小沢は、
「そうだ、伊部の奴は高等学校の時から変った字を書いていたっけ」
 と、久しく会わぬ旧友を、しかも復員後はじめて会う知人として訪ねる――というなつかしさがこみ上げて来て、
「――ここは焼けないで良かった」
 と、喜びながら、玄関の戸をあけると、三足の男の靴が脱ぎ捨ててあった。
 それをちらと眼に入れながら、案内を請うと、奥から出て来た若い娘が、
「あら。小沢さん」
 小沢の顔を見て、耳の附根まで赧くなった。

 三年振りだったが、さすがにその娘の顔には見覚えがあった。
 額が広く奥眼で、鼻筋が通っているところなど、兄の伊部恭助にそっくりだったから、妹の道子だと、すぐ判り、
「やア、暫く……」
 小沢は以前この家を訪ねて来た時と、同じ調子の声を出しながら、しかし、めずらしく赧くなってしまった。
 三年前に見た時はまだ女学校へ通っていたのに、今はすっかり娘めいて、スカートの裾から覗いているむっちりした膝頭を気にしているのを見て、思わずはっと赧くなったのだろうか。
 それとも、道子がぱっと顔に花火を揚げたのを見て、かえってこちらが照れてしまい、ふと赧くなったのだろうか。
「伊部君いますか」
 そうきくと、道子は、
「あのウ、今ちょっと……」
 留守ですと、なぜか半泣きの顔になった。
「あ、病院ですか」
 伊部が阪大の外科に勤めていたことを想い出した。
「はア、でも……」
 曖昧に言って、ふと笑うと、えくぼがあった。
「そうですか」
 と、小沢はがっかりして、
「――じゃ、また出直しましょう」
「あら……」
「えッ……?」
「あのウ……」
 帰らないで、上ってはどうかと、言いだし兼ねて、道子はもじもじしていた。
「だって……」
 お客さんでしょうと、ちらと男の靴を見た。
 道子も見て、
「あら、いいんですの」
 しかし、ぱっと花火を揚げて、
「――どうぞ」
「そうですか、じゃ」
 茶の間へ通されると、小沢は早速きり出した。
「――実は今日お伺いしたのは、著物をお借りしようと思って……」
「著物……?」
「ええ、女の著物なんです」
 小沢は頭こそかかなかったが、頭をかきながら――と言った気持で言った。
「女の……?」
 道子はふっと眉をくもらせた。
「伊部になら、詳しく事情を話せるんですが……、でも、……」
「あたしじゃ話せませんの……?」
 と、道子の声は何か鋭く、その鋭さは小沢にはふと意外だった。
「ええ、ちょっと……」
 こんどは本当に頭をかきながら、
「――たすけると思って、貸していただけませんか」
 道子は急に立ち上って、茶の間を出て行った。
 そして、奥の部屋で何やらヒソヒソ言っているらしかったが、やがて戻って来ると、
「折角ですけど……」
 お貸し出来ませんわと、悲しそうな表情を唇に見せながら、その唇をキッと噛んだ。

「どうして……」
 駄目ですか――という眼で、小沢はちらと道子の顔を見ると、道子はキッと唇を噛みながら暫く、あらぬ方を見つめていたが、やがて、
「著物差し押さえされました」
 本を読むような、表情のない声で言って、ふと、微笑むといつものえくぼが浮かんだ。
 しかし、そのえくぼには寂しい翳があった。
「えっ……? サシオサエ……?」
 咄嗟に、意味が判らなかった。
「執達吏が今うちへ来てるんです」
「ああそれで……」
 判った。
 さっき玄関で見た三足の男の靴は、サシオサエに来ているのだったかと、判ったが、
「――しかし、どうして……?」
 と、疑問は残った。
「兄が高利貸に借金したんです」
「へえ……? 伊部君が……」
 高利貸に借金するとは、意外だった。
 伊部は二十五歳で医学博士になったくらいの秀才で、酒も煙草も飲まぬ、いわゆる品行方正の男だったし、勤務先の阪大病院でもまず相当な給料を貰っていたから、高利貸に金を借りるような生活はまるで想像も出来なかった。
 ところが――。
「……敗戦になってから、急に酒を飲みだしたんです」
 おまけに煙草は日に八十本、病院もやめてしまい、毎日ぶらぶらして、水すましのように空虚な無為徒食の生活をはじめた――と道子はスカートの端をひっぱりながら言った。
「どうしてまた……?」
 そんな風になったのかと、小沢はびっくりして、口も利けなかった。
「それが……」
 と、道子はふとうなだれて、
「――あたしにも判らないんです」
「ふーん」
 小沢にも無論判らなかった。
「――病院もやめてしまったんですか」
「病院から、来てくれ来てくれって、喧しく言って来るんですけど、どうしても……。戦争が終ってから、何んとなく行く気がしないと云うんです。すっかり人間が変ってしまいましたわ」
 あとの方は、声がうるんだ。
「ふーん」
 と唸るより仕方がなかった。
「小沢さん、お願いです」
 道子は小沢の名を言う時、急に赧くなった。
「――兄さんに忠告して下さい」
「で、兄さんは今どこにいるんですか」
「たぶん渡辺橋の方だと思います」
「何をしに……?」
「何もすることがないので、毎日朝早くから魚を釣りに行っているんです」
 情なそうに、道子は言った。

「魚釣り……?」
 など、するような伊部ではなかったのだ。研究と仕事以外には、何一つ道楽も趣味もない男で、欠伸する暇もないくらい、医学の仕事に全身を打ち込んでいたのだ。
「ええ」
 と、道子は小沢に答えた。
「――朝暗い内から起きて、出て行くんです。そして、一日中渡辺橋のところで、坐ってるんです」
「釣れるんですか」
 小沢は愚にもつかぬ質問をした。それよりほかに、何か言うべきことを知らない――それほど呆れ返っていたのだろう。
「さア、どうですか。一匹も持って帰ったことはありませんの。釣ったのは、みな川へ逃がしてやるらしいですの」
 その悲しそうな声は、小沢の胸を痛めた。
「伊部の奴!」
 と唇を噛んで、ふと壁に掛った野口英世の写真を見あげて、
「――僕これから行って、言いきかせてやります」
「お願いします」
「じゃ……」
 起ち上ろうとするのを道子は、
「あらッ。――いまお茶を入れますから……」
 このまま小沢が帰ってしまうことが、思いがけず寂しかった。
 がなぜ、そんなに寂しいのだろう。
「そうですね。じゃお茶だけ……」
 いただきましょうと、小沢は坐り直したが、しなければならないことが山ほどありながら、ふと自分をひきとめたものは、一体何であろうかと、小沢は道子の顔から、あわてて眼をそらした。
 その拍子に、雪子の顔がちらと浮んだ。自分の帰りを待っている雪子の顔が……。著物、帯、下駄……。
 道子は湯呑みを出そうとして、水屋の戸をあけようとした。
 その時、いきなりはいって来た男が、
「おっと……、それ、あけちゃ困りまっせ」
 と、道子の手を払おうとした。
「なぜいけないんだ?」
 小沢は道子の分までむっとして怒鳴るように言った。
「封印がしてまっさかいな」
 男はにやにやした。
「一体、伊部君はいくら借りたんです」
「千円です」
 道子が言うのと同時に、男は、
「二万三千円……。元利合計してまっさかいな。へ、へ、へ……」
「千円が二万三千円……? そんな莫迦な……」
「伊部さんにきいてみなさ
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