れ」
 ペペ吉の豹吉はきっとお加代を睨みつけて、
「おれの言うてるのは、そんなけちくさい良心と違うわい」
「じゃ、けちくさくない良心テ一体どんな良心なの?」
「けちくさい仕事はせんというのが、掏摸の良心や、浦島太郎みたいに、ぼうっとなっている引揚早々の男を覘うのは、お前けちくさ過ぎるわい。――おい、亀公、お前も掏摸なら掏摸らしゅう、もう一本筋の通った仕事をしろ」
 返して来いと、豹吉はすさんだ声で言った。
「返せと言うたかテ、どこを探したらええか、さっぱり判らんがな」
「判らなかったら、一日中駈けずり廻って探して来い――いやか。いやなら、いやと言え!」
「返すよ、返すよ。返しゃいいんだろう」
 しかし、亀吉はまだぐずついていた。が、「ハバ、ハバ!」
 と、言われると、
「オーケー」
 自分の言葉に軽く押し出されるように、亀吉はひょいとハナヤを飛び出した。
 次郎と三郎は、びっくりしたような眼を見合せていた……。

    大阪の憂鬱

 丁度その頃――。
 というのはつまり、亀吉が豹吉にいいつけられて小沢十吉を当てなく探しに、千日前のハナヤを出た頃――。
 雪子は阿倍野橋の宿屋の一室に寝巻のまま閉じこもって、小沢の帰りを待ち焦れていた。
 妙な一夜が明けて、朝小沢は眼を覚すと、雪子に言った。
「君、どうする……?」
「どうするって……?」
「帰れる、その恰好で……」
「帰られへんわ」
 寝巻に細帯だけだった。おまけにその寝巻は宿屋のものなのだ。よしんば借りて帰るにしても、温泉場の夜ならともかく、白昼の大阪の町を、若い娘の寝巻姿は目立ちすぎる。それに、履物がない。
「宿屋の女中さんに事情話して、著物貸して貰うかな」
「いや」
「どうして?」
「だって」
 裸で来た理由を語るのは、あくまで避けたいらしかった。
「じゃ、どこか君の知っている所で著物貸してくれそうな所ないかね。君の使いになって、僕、行ってみるけど……」
「…………」
「ないのか」
「ええ」
「じゃ、僕が何とか工面して来てあげよう」
「お心当りありますのン?」
「まず、買うて来るより仕方がない。闇市……っていうのか、復員したばかりでよくは知らんが、そこへ行ったら売ってるんじゃないかな。金さえあれば、何でもあるってことだそうだから」
「でも、そんなお金……」
「大阪駅へ荷物預けて置いたんだ。毛布や何やかやあるから売れば金になるだろう」
「そんなン……気の毒ですわ」
「今から行って来るから、帰るまで待っていろ」
 そう言って、小沢は出て行った。
 その帰りを、雪子は待ち焦れているのだった。
 勿論、著物を待っているのにはちがいないものの、しかし、何か恋人を待っているような甘い焦燥がないわけではなかった。
 早く著物を持って帰ってくれれば、それを著て、そのまま小沢と別れて、いつも行くように、十時にハナヤへ行きたいと、思っていたが、しかし、小沢が帰って来ても、もはや何か小沢と離れがたいという気持もあった。
 離れがたいと言っても、しかし、そんな深い仲になったわけではなかった。むしろ、小沢は夜どおし雪子に背中を向けて寝ていたのだ。
 しかしそれがかえって、雪子の心を燃えさせたのだ。かつて男というものに動いたことのない心が不思議にいそいそと燃えたのである。
 だから、ひたよりに小沢の帰りを待っていることが雪子の心を甘くゆすぶっていた。
 しかし、小沢はなかなか帰って来なかった。

 小沢は憂鬱だった。
 が、しかし、小沢の憂欝は同時に大阪の憂鬱ではなかろうか。
 まず小沢の憂鬱は――。
 雪子をひとり残して、阿倍野橋の宿屋を出た小沢は、阿倍野橋から地下鉄に乗って、大阪駅まで行った。
 そして、駅の東出口の横にある荷物の一時預け所へ行き、引換えのチケットを出そうとして、はじめてそれが無くなっていることに気がついた。
 あわてて、あちこちポケットを……裏返しにまでしてみたが、ない。
「おかしい。落したのかな」
 まさか掏られたとは思えなかった。
「チケットを落したんですが……」
 と、小沢はもう探すことは諦めて、係員に言った。
「――チケットなしでも渡して貰えますか」
「渡せんな」
 香車で歩を払うような、ぶっ切ら棒な返事だった。
「預けた品はわかってるんですが……」
「ふん、どうせ闇のもンやろ」
 小沢はむっとした。が、声は柔く……というより、むしろ情けない調子で、
「昨日復員したばかしで、実はその荷物なんです。毛布は麻繩を掛けたやつですから、見ればすぐ……あ、そうだ、名前もついている筈です。小沢十吉です」
「なんや、復員の荷物か」
 係員は吐きだすように言った。
「そうです」
 小沢は腹が立つというより、むしろ情けなかった。
 こういう所の人々の中によくある妙に威張った態度は、戦争中と少しも変っていない。彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。
 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん判らないわけではなかった。しかし、復員者はすでに人間として帰って来たのだ。いや、むしろ「人間になろうとして」帰って来たのだ。いわば、まだ本当の人間になり切っていないのだ。それだけに、
「なんや、復員か」
 という一言が、彼を悪の華の咲く園に追いやり、太陽の光線よりも夜光虫の光にあこがれさせてしまわないとは、断言できない。
「復員の荷物みたいなもン、一つもないぜ」
 係員は棚の荷物をちらと見廻して言った。
「しかし、預けたことはたしかに預けたんですから……」
 ない筈はないと、小沢が言うと、
「ないもンはない。――誰ぞ取りに来たんやろ」
「取りに来た? ……誰がですか」
「そら知らん。――だいいちチケットを落すのが悪い」
 係員はすっと奥へはいってしまうと、もう小沢がいくら呼んでも出て来なかった。
 小沢はがっかりして、梅田の闇市場の中にある食堂へはいって行くと、ここにもまた大阪の憂鬱があった。

 小沢は朝から――というより、昨夜から何も食べていなかった。
 米を持っていなかったから宿屋では食事を出してくれなかったのだ。
 実は、復員の時にもらった三日分の米を、毛布の中へくるんで大阪駅へ預けて置いたのだった。
 それを受け取って、毛布や長靴を売って、雪子の著物を買い、宿に帰って米を炊いてもらおうと正直に考えていたのだ。
 外で食事が出来るとは、考えも及ばなかったのだ。
 だから、預けた荷物がいつの間にか無くなっていたと判ると、小沢は何よりも先に、
「今日は何にも食えないかも知れんぞ!」
 と、まずそのことを諦めた。
 ところが、あてもなく闇市場を歩いていると、パンを売っているばかりか、食堂の飾窓にはカレーライスの見本もも[#「見本もも」はママ]出ているではないか。
 小沢はいそいそと中へはいったのだ。
「カレーライス出来る……?」
「出来ます」
「ライス……って米なの……?」
「純綿です」
「純綿……?」
 と、きき返したが、
「――ア、そうか。白米か」
 と、すぐ判った。
 値をきくと、十五円だという。
「高い!」
 と、思う前に、小沢はとにかく外で米の飯が食えるという意外な発見に、気持が浮き立っていた。
 十五円という金がこの国の勤労階級の収入の、殆ど一日分――いや、それ以上の大金だということには、小沢は暫らく気がつかなかった。
 その食堂に、どうして白米があるのか、毎日何百杯かのカレーライスを売るだけの米があるのか――ということも、考えなかった。
 ただ、米があるということに安心していた。
「大阪へ帰れば、米は食えないぞとおどかしやがったが、なんのことだ、ちゃんとこうして、あるじゃないか」
 食糧危機だなんて言葉は嘘なんだな――と思いながら、運ばれて来たカレーライスを食べていると、黝ぐろいむくみがむくんで、水が引いたように痩せおとろえた十六、七の薄汚い少女が、垢と泥が蘚苔のようにへばりついている跣足のまま、フラフラとはいって来た。
 そして、中風やみのようにぶるぶる手足をふるわせながら、しょぼんと立っていたが、ふと小沢の足許に二、三粒の飯粒が落ちているのを見るとあっという間にしゃがんで、その飯粒を口に入れた。
 小沢は思わず顔をそむけた。
「昔は乞食もこんな浅ましい真似はしなかった。やっぱり日本は哀れな国になってしまったのか……」
 外で米の飯が食べられる余裕があったのかという咄嗟の安心感は、簡単に消えて、恥も外聞も見栄ももうこの国の人間は失ってしまったのかと情けない――というよりむしろ腹が立った。
 しかし、さすがにその少女があわれで、何か食べさせてやろうと思った途端、隅の方に坐っていた男が、ちらと鋭い眼を輝かせて、
「おい!」
 と、その少女を呼んだ。
「…………」
 娘はだまって振り向いた。
 呼んだのは、四十五六の角刈の男だった。
 和服の着流しに総しぼりの帯、素足に革の草履――という身なりは、どこか遊び人風めいていたが、存外律義そうな顔立ちで、
「腹が空いてるのンか」
 と、きいた声は、女のように優しかった。
「…………」
 娘は答えず、きょとんとした眼で男を見ていた。
「食べたいか……?」
 と、男はにぎり寿司の皿を指した。
「う、う、う……」
 娘はうなずき、うなずきながら鳥の啼くような声を、痩せた喉から、
「う、う、う……」
 絞り、絞り出した。
「なんや、唖か」
 男は自分の耳へ、女のようにきゃしゃで美しい人指し指を当てた。
 耳は聴こえるのかという意味だと、娘も判ったのか、
「う、う、う……」
 と首を振った。聴えぬらしい。
「ちょっと……」
 男は食堂の女を呼んで、
「――この娘に、にぎり寿司食わせてやってくれ、それからビールもう一本……」
 にぎり寿司が来ると、娘はむさぼるように口へ放り込んで、またたく間に食べてしまい、皿についている飯粒を、舌の先でペロペロと拾った。
 男はビールを飲みながら、じっとその容子を見ていたが、やがて怪しげな手つきで、
「――おれに――ついて来たら――もっと飯を――食わせてやる――ついて来るか……」
 という意味の手真似を、やり出した。
 即席の手真似だが、娘には通じたのか。だまってうなずいた。
 飯を食わせてくれるなら、どこまでもついて行く――という風であった。
 男はにやりと笑うと、勘定を払った。そしてコップに残っているビールを、立ったまま、ぐいと飲みほした。
 途端に、男の青い腕が袖から覗いた。
 その青さに、小沢はどきんとした。青い腕――と見えたのは、刺青だったのだ。
「さア、行こう」
 コップを置くと、男は娘をうながして、外へ出た。娘はヒョロヒョロした足で、ついて行った。
 その時、食堂の隅で古いラッパつきの蓄音機が鳴り出した。
 まるで、唖でつんぼの娘が出て行くのを待っていた――といわんばかしに鳴り出したその音を聴いていると、何かしら奇妙な感じが、小沢の頭の中をぐるぐると廻った。
 ラッパつきの蓄音機がチグハグなのか。時代おくれの刺青を見たことがチグハグなのか。それとも、ネオンサインが大阪の盛り場の夜空を赤・青・紫に染めていた頃の、昔の甘い浅薄な流行歌を、焼跡のバラック建の食堂の中で、白昼きいていることが、奇妙なのか。
 いや、それよりも今ここを出て行った男の行動が、何か奇妙なような気がしてならなかった。
 あの娘を何のためにどこへ連れて行くんだろう。飯ならここで食えるのに、物好きな……。
 いや、単なる物好きだけだろうか。
 へんだぞと、小沢は呟いた。

 小沢は食堂の女を呼んで、きいた。
「今の人、いつも来るの……?」
「いいえ、はじめてです」
 顔のオデキをかくそうとしてベタベタと塗り立てたのか、おかしい位こってりと厚化粧した女は、安白粉の匂いをプンプンさせながら、小沢の傍に掛けると、
「――おビール持って来まひょか」
 大阪弁を使っているが、アクセントは
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