間の「ヒンブルの加代」と異名のあるバラケツであった。
 バラケツとは大阪の人なら知っていよう。不良のことだ。
 しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。
 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。
 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。
 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。
 それ故の「ヒンブルの加代」だが、べつに「兵古帯お加代」という名も通っている。
 洋装はせず、この腕の刺青をかくすための和服に、紫の兵古帯を年中ぐるぐる巻きにしているからだ。
 従って、髪も兵古帯にふさわしくお下げにして、前髪を垂らしているせいか、ふと下町娘のようであり、またエキゾチックなやるせなさもある。
 昔はやった「宵闇せまれば悩みは果てなし……」という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひどい目に会う学生が多い――それほどお加代は若い男の心をそそる魅力を持っていた。
 それかあらぬか、仲間の男たちは、
「ヒンブルの加代のことを考えると、何だかやるせなくなって来る」
 と、空しく胸を焦していたが、ただ一人豹吉だけは、癖の唾を吐いても、鼻もひっ掛けなかった。
 それ故、雪子の代りに見たお加代の姿ほど、豹吉を失望させたものはなかったが、一方、
「なんだ、お加代か」
 という豹吉の言葉ほど、お加代を失望させたものはなかった――とも言えよう。
 しかし、さすがにお加代は寂しい顔を見せずに、
「あたしで悪かったわね。――折角誰かさんに会いに来たのにね」
 と、豹吉より四つ歳上だけの口を利いた。
「阿呆ぬかせ! 俺はこいつらに珈琲を飲ませてやろうと思うて、来ただけや」
 連れて来た靴磨きの兄弟が、この際の楯になった。
 勿論、そのつもりでハナヤへ来たには違いない。しかし、その二人を連れて来るという思いつきを豹吉に泛ばせる胸底には、たしかに雪子のことがあった。
 一人で来るのにもはや照れていたのだろうか、それとも、いつもは一人で来るのに、今日はいきなりそんな連れと一緒に来たことで、雪子をあっと言わせたい例の癖を出したのだろうか。
 いずれにしても、肝腎の雪子がいないとすれば、まるでキッカケをはずされた役者のようなものであった。意気込んで舞台へ飛び出したが、相手役がいなかったというバツの悪さをごまかすには、せめて思いも掛けぬお加代という登場人物を相手にしなければならない。
「へえん、随分ご親切だけど、かえって親切が仇にもなるわよ」
 と、お加代はしかし大根役者ではなかった。

「親切が仇に……? なんぜや……?」
 豹吉はききかけて、よした。
 他人の意見なぞ、どうでもよい。自分の考えだけを押し通せばいいのだ。頼りになるのは、結局自分自身だけだ――というのが、豹吉の持論だった。
「おい、八重ちゃん……」
 と、豹吉は店の女の子を呼んで「――この子供らに、メニューにあるだけのもン、何でも食わせてやってくれ」
 どうやら靴磨きの少年達に御馳走することには、反対らしいお加代への面当てに、わざとそう言った。
「何でもって、全部ですか」
 女の子はまごついてしまった。
「そうだ。――ハバ、ハバ!」
 豹吉はいらいらして言った。ハバとは「早くしろ」という意味の進駐軍の用語である。
 珈琲、ケーキ、イチゴミルク、エビフライ、オムレツ……。
 運ばれて来るたびに、靴磨きの兄弟――
「うわッ、うまそうやな」
 と、唾をのみ込み咽を鳴らしながら、しかし、
「――これ食べてもかめへんか。ムセンインショク(無銭飲食)でやられへんか」
 と、不安そうに豹吉にだめを押した。
「心配するな」
「大将、ほんまに新円持ってるのンか」
「情けないこときくな」
 豹吉は上衣の胸のあたりをポンと敲いて、
「――この通り、掏られも落しもせんさかい、安心して食べろ」
 今さきハナヤの入口で自分を掏ろうとした頓馬な駆け出しの掏摸の顔を想い出しながら、にやりと笑ったが、ふと時計を見ると、もう豹吉の頬からえくぼが消えてしまった。
 十一時半……。
 十時に来ていつも十時半に帰ってしまう雪子だったから、もうこんな時間になって来る筈もない。
「しかし、なんぜ来ないのかなア。昨日おれの言ったことで気を悪くしたのかなア。それとも、なんぞ起ったンやろか」
 ふとそう呟いた時、お加代の声が来た。
「あんたも随分物好きな人ね」
「今更言わんでも判ってる。おれから物好きを取ってしもたら、おれという人間がなくなってしまうよ」
「そりゃ判ってるわよ。だいいち中学校の体操の教師を投げ飛ばして学校を追い出されたくらいだから……」
「じゃ黙っとれ!」
「いや、喋るわ」
「選挙はもう済んだぜ」
 それには答えず、お加代は、
「あんた御馳走したげるのはいいけど、寝てる子起すようにならない……? その子たち、やみつきになったらどうするの……?」
「兵古帯のくせに分別くさいこと言うな」
「あんたは分別くさくなかったわね」
「何やと……?」
「分別があれば、あんな怪しい素姓の女に参ったりしないわね。何さ、そわそわ時計を見たりして……。」
「怪しい……? 何が怪しい素姓だ……?」
「あら、あんたあの女の素姓しらないの?」
 お加代の声はいそいそと弾んだ。

「素姓みたいなもン知るもんか」
 豹吉はペッと唾を吐いて、
「――女に惚れるのに、いちいち戸籍調べしてから惚れるくらいなら、俺ははじめから親の家を飛び出すもんか」
 古綿をちぎって捨てるように言った。
 口が腐っても、惚れているとは言わぬ積りだったが、この際は簡単に言ってのける方が、お加代への天邪鬼な痛快さがあった。
 果して、お加代は顔色を変えた。
 豹吉が雪子に興味を抱いているらしいことは無論知っていたが、しかし、はっきり豹吉の口から聴いてみると、改めて嫉妬があり、
「ただでは済ませるもんか」
 という自尊心のうずきが、お加代の額にピリッと動いた。
「なるほど、家を飛び出すだけあって、あんたも随分おつな科白が飛び出すわね。しかしわれらのペペ吉が惚れるもあろうに、ストリート・ガールにうつつを抜かした――というのはあんまりみっとも良い話じゃないわよ」
 ペペ吉とは豹吉の愛称だ。むかし「望郷」という仏蘭西映画にペペ・ル・モコという異色ある主人公が出て来たが、そのペペをもじったのか、それとも、ペッペッと唾を吐く癖からつけたのか。
「ストリート・ガール……?」
 人を驚かすが自分は驚かぬという主義の豹吉も、さすがに驚きかけたが、危くそんな顔は見せず、
「――嘘をつけ!」
「そんな怖い眼をしないでよウ。――嘘でない証拠には、あたしはちゃんとこの眼で見たんだから。ゆうべ雨の中で男を拾ったところを」
「どこでだ……?」
「戎《えびす》橋……相手の男まで知ってるわ。首知ってるどころじゃない。名前をいえば、針が足の裏にささったより、まだ飛び上るわよ」
「言ってみろ、どいつだ……?」
「ガマンの針助……」
 と、言って、にやりと笑うと、
「……に、きいてごらんよ」
「じゃ……? あはは……。担いでものらんぞ、あはは……」
 豹吉はわざと大きく笑ったが、しかし、その笑いはふと虚ろに響き、さすがに狼狽していた。
 ガマンの針助……。
 この奇妙な名前の男について述べる前に、しかし、作者は、その時、
「やア、兄貴!」
 と、鼻声で言いながら、ハナヤへはいって来た十七、八の、鼻の頭の真赤な男の方へ、視線を移さねばならない。
 豹吉を兄貴と呼んだ所を見れば、同じ掏摸仲間であろう。名前は亀吉……。
 首が短かく、肩がずんぐりと張り、色が黒い。亀吉というのが本名なら、もう綽名をつける必要はない。
 豹吉の傍へ寄って来ると、
「兄貴、えらいこっちゃ。刑事《でか》の手が廻った!」
 亀吉は血相を変えていきなり言った。

 お加代の顔には瞬間さっと不安な翳が走ったが、豹吉は顔の筋肉一つ動かさず、ぼそんとした浮かぬ表情を、重く沈ませていた。
「……刑事《でか》の手が廻った」
 という言葉の効果を期待していた亀吉は、簡単にすかされて、ひょいと首をひっ込ませると、
「けッ、けッ、けッ……。一杯|担《かつ》ぎ損いや。へ、へ、へ……。兄貴をびっくりさせるのはむつかしいわい。う、ふ、ふ……。しかし兄貴はなんでこない何時もびっくりせえへんネやろな。ヒ、ヒ、ヒ……」
 実にさまざまな、卑屈な笑いを笑った。
「当りきや。そうあっさりと、びっくりしてたまるか。おい、亀公、お前この俺を一ぺんでもびっくりさせることが出来たら、新円で千円くれてやらア」
 蓄膿症をわずらっているらしくしきりに鼻をズーズーさせている亀吉の顔を、豹吉はにこりともせず眺めて、
「――お前ら掏摸のくせに、千円の金を持ったことないやろ」
「持たいでか。それここに……」
 亀吉は胸のポケットを押えた。
 豹吉はちらと見て、
「なるほど、持ってやがる。まア二千円ってとこかな」
「えッ」
「どや、図星やろ。あはは……。それくらいの眼が利かないで、掏摸がつとまるか。まア、掏られぬように気イつけろ」
 豹吉が言うと、お加代もはじめて微笑して、
「亀公にしてはめずらしい大金ね。拾ったの?」
 と、冷かすと、亀吉はふっと唇をとがらせて、
「何をぬかす。拾った金なら届けるわい」
「じゃ、掏った金なら持ってるの……」
「そや」
「本当に掏ったの……」
「当りきシャリキ、もちろん……おまけに、掏ったのが紙一枚、それが二千円とはごついやろう」
「また担ぐんじゃない……」
「まア、聴け……」
 そして亀吉の喋ったのは、こうだった。
 ――昨夜、亀吉は大阪駅の東出口の荷物預り所で、脊中の荷物を預けている復員軍人を見た。
 亀吉は何思ったか、寄って行って、その復員軍人が、カードに、
「小沢十吉……」
 と、書いたのを、素早く読み取った。
 そして小沢が引換のチケットをズボンの尻にねじ込んで地下鉄の中へ降りて行くと、ひそかにそのあとをつけ、雑踏の中で、そのチケットを掏ってしまった。
 二時間後、亀吉は何食わぬ顔をしてその荷物を受け取りに行き、闇市へ持って行く。
「……煙草一本吸う間に、どや二千円で売れたとは鮮かなもんやろ」
 と、胸を張った途端、亀吉の頬がピシャリと鳴った。
「莫迦ッ! 復員軍人と引揚げだけは掏るなと、あれほど言うてるのが判らんのか。復員軍人や引揚げはみな困ってるネやぞ。盗んだ品は買い戻して、返して来い」
 豹吉は亀吉よりも次郎、三郎の方がびっくりするくらい、大きな声で怒鳴りつけた。

「兄貴殺生やぜ」
 と、亀吉はなぐられた頬を押えながら、豹吉に言った。
「何が殺生や……?」
「そうかテお前、折角掏ったもんを、返しに行け――テ、そンナン無茶やぜ」
「おい、亀公、お前良心ないのンか」
 豹吉は豹吉らしくないことを言った。
「ない」
「ない……? 良心がない……?」
「あったけど、今はないわい」
 亀吉はふと悲しそうに、
「――二人とも死んでしもた」
「阿呆、その両親と違うわい。心の良心や」
「ああ、それか。それやったら、一寸だけある」
「ほな、返しに行け」
「…………」
 亀公は何か言いたそうに、唇を尖らせた。
「復員軍人テお前どんなもんか知ってるやろ。たいてい皆いやいや引っ張り出されて、浦島太郎になって帰って来た連中やぞ。浦島太郎なら玉手箱の土産があるけど、復員は脊中の荷物だけが財産やぞ。その財産すっかり掏ってしもても、お前何とも感じへんのか」
「…………」
 亀吉は眼尻の下った半泣きの顔を、お加代の方へ向けた。
 お加代は煙草を吹かしながら、ぼそんと口をはさんだ。
「……良心か。ペペ吉も良心なんて言い出しちゃ、もうおしまいだねえ。女に惚れると、そんなにしおらしいことを云うようになるもんかなア。掏摸をするのに、いちいち良心に咎めたり、同情していた日にゃ、世話はないわねえ」
「お前は黙っと
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