渋く垢ぬけているのだ。
 更に垢ぬけているといえば、その寝顔は、ぞっと寒気がするくらいの美少年である。
 胸を病む少女のように、色が青白くまつ毛が長く、ほっそりと頬が痩せている。
 いわば紅顔可憐だが、しかしやがて眼を覚まして、きっとあたりを見廻した眼は、青み勝ちに底光って、豹のように鋭かった。
 その眼つきからつけたわけではなかろうが、名前はひょう吉……。十八歳。
 豹吉の(ヒョウ)は氷河の氷(ヒョウ)に通じ、意表の表(ヒョウ)に通ずる、といえば洒落になるが、彼は氷のような冷やかな魂を持ち、つねにひとびとの意表を突くことにのみ、唯一の生甲斐を感じている、風変りな少年だった。
 自分はいかなることにも驚かぬが、つねに人を驚かすことが、この豹吉の信条なのだ。
 きっとあたりを見廻して、そして二、三度あくびをすると豹吉はやがてどこをどう抜けたか、固く扉を閉した筈の会館の中から、するりと抜け出すことに成功した。
 昨夜の雨はもうやんでいた。
 午前六時といえば、この界隈のビル街もひっそりと静まりかえって、人通りもない。
「なんだ、人間は一匹もおらへんのンか」
 豹吉はそれがこの男の癖の唾をペッと吐き捨てた。
 その拍子に、淀川の流れに釣糸を垂れている男の痩せた背中が、眼にはいった。
 そこは渡辺橋の南詰を二三軒西へ寄った川っぷちで、ふと危そうな足場だったから、うしろから見ると、今にも川へ落ちそうだった。
 豹吉はその男の背中を見ていると、妙にうずうずして来た。
 今日の蓋あけに出くわしたその男の相手に、何か意表に出る行動がしたくてたまらなくなったのだ。はや悪い癖が頭をもたげたのだ。
「何でもええ。あっというようなことを……」
 考えているうちに、
「――そうだ、あの男を川へ突き落してやろう」
 豹吉の頭にだしぬけに、そんな乱暴な思いつきが泛んだ。

「煙草の火かしてくれ」
 豹吉は背中へぶっ切ら棒な声を掛けた。
「…………」
 男はだまって振り向くと、くわえていた煙草を渡した。火を移して、返そうとすると、
「捨ててくれ」
 そして、男はべつの新しい煙草を取り出して、火をつけた。
 豹吉は何だかすかされたような気がして、
「ありがとう。ライターの石がなくなっちゃったもんだから……」
 少年らしい虚栄だった。
 煙草を吸うくせにマッチを持たぬのかと思われるのは、癪だと思ったのだ。すると、
「下手な東京弁を使うな。君は大阪とちがうのか」
 いきなり男の声が来た。
 三十前後の、ヒョロヒョロと痩せて背の高い、放心したような表情の男だったが、眉には神経質らしい翳があり、こういう男はえてして皮肉なのだろうか。
「ほな、何弁を使うたらいいねン……?」
「詭弁でも使うさ」
 男はひとりごとのように、にこりともせず言った。
 その洒落がわからず、器用に煙草の輪を吹き出すことで、虚勢を張っていると、
「――君はいくつや」
 と、きかれた。
「十八や。十八で煙草吸うたらいかんのか」
 先廻りして食って掛ると、男は釣糸を見つめながら、
「おれは十六から吸っている」
 豹吉はやられたと思った。
「朝っぱらから釣に来て、昼のお菜の工面いうわけか」
 仕返しの積りで言うと、
「落ちぶれても、おりゃ魚は食わんよ。生ぐさいものを食うと、反吐が出る」
「ほな、何を食うんや」
「人を食う。いちいち洒落を言わすな」
 男の方が役者が一枚上だった。
「食わん魚釣って売るつもりか」
「おりゃ昔から売るのも買うのも嫌いや」
「……? ……」
「変な顔をするな。喧嘩のことや」
 また洒落だ。
「洒落は漫才師でも言うぜ」
 いい気になるなと、豹吉はうそぶいた。
「あはは……」
 男ははじめて笑って、
「――洒落もお洒落もあんまり好きやないが、洒落でも言ってんと、日が暮れん。釣もそうやが……」
「ほな、失業して暇だらけやいうわけか」
「さアなア……」
「商売は何や……?」
「医者ということになっている」
「医者なら人を殺した覚えあるやろな」
「ある」
「どんな気持や……?」
「説明しても判らん。経験がないと判らん」
「ほな、今経験してみるわ」
 豹吉はにやりと笑ったかと思うと、いきなり男の背中をどんと突いた。
 男はあっという間に川の中へ落ちてしまった。
 
 男が川の中へ落ちてしまったのを見届けると、豹吉は不気味な笑いを笑った。
 しかし、さすがに顔色は青ざめていた。
 ふとあたりを見廻した。
 誰も見ていた者はない。午前六時だ。人影も殆んどなかった。
 豹吉は固い姿勢で歩き出した。
「誰も見ていなくてよかったが、しかし、誰か見てくれていた方がやり甲斐があったな」
 そう呟きながら、渡辺橋を北へ渡って行ったが、橋の中ほどまで来ると、急にぱっと駈け出した。
 うしろも見ずに、追われるように走りながら、
「しもたッ! あの男を突き落す前に掏ってやればよかった……」
 そんな後悔でかえって自分を力づけていた。
「――しかし、掏ってみても、あの男のこっちゃさかい、新円の五十円もよう持っとらんやろ、朝の仕事はじめに、百円にもならん仕事をしたら、けちがつく」
 そう考えると、――いや、そう考える余裕がこの際残っていたことで、豹吉はわずかに自尊心が慰められた。
 けれど、走る足はやはり速かった。……
 それから、四時間近くたった頃――
 どこをどう歩きまわっていたのか、豹吉は風のように難波の闇市へ現れた。
 昨日は雨とメーデーで闇市もさびれたが、今日の闇市はまだ昼前だというのに、ぞろぞろと雑踏していた。
 揉まれるようにして、歩いていると、
「大将! 靴みがきまひょか」
 二人の少年から同時に声を掛けられた。
 二人は顔が似ていた。二人とも痩せて、顔色が悪く、乾いた古雑巾のように薄汚い無気力な顔をしている点が、似ているだけではない。顔立ちが似ているのだ。どちらも、びっくりしたように、眼が飛び出している。
 兄弟かも知れない。
 豹吉はふと腕時計を見た。十時十分前だ。
「まだ十分ある」
 豹吉は二人の少年の方へ寄って行くと、
「――お前磨け!」
 小さい方へ靴を出した。
 大きい方の少年はあぶれた顔であった。
 片一方磨き終ると、豹吉は、
「それでええ」
「まだ片足すんどらへんがな」
「かめへん」
 と、金を渡すと、豹吉はこんどは大きい方の少年の方へ、
「こっちの足はお前磨け」
「…………」
「心配するな。金は両足分払ったる」
「オー・ケー」
 いそいそと磨き出した。
 通り掛った巡査がじろりと豹吉の顔を見て行った。
 豹吉はふと、香里の一家みな殺しの犯人が靴を磨いているところを、捕まった――という話を想い出した。
 磨き終って、金を払った途端、豹吉はまたもや奇妙なことを思いついた。
 豹吉はペッと唾をはいた。
 が、べつに不機嫌だというわけではない。
 むしろ機嫌のよい証拠には、両の頬に憎いほど魅力のあるえくぼが、ふっと泛んでいる。
 だしぬけに泛んだ思いつきの甘さに自らしびれていたのだ。
「おい、お前ら珈琲飲み度うないか」
 豹吉は靴磨きの兄弟に言った。
「珈琲か。飲んだことないけど、うまそうやな」
 大きい方の次郎が云った。
「一ぺん飲みたいな。そやけど、あかんわ」
 小さい方の三郎は悲しい顔もせずに、簡単に諦らめていた。
「なんぜあかんネん……?」
「きかんでも判ってるやないか。銭があらへん」
「不景気なことを云うな。なんぼ戦争に負けた云うたかテ、珈琲の味ぐらい覚えてもかめへんぞ。どや、おれが飲ましたろか。本物のブラジル珈琲やぞ」
 豹吉が言うと、ブラジル珈琲とはどんなものか、二人にはまるで判らなかったが、びっくりしたような眼を、一層くるくるさせて、
「ほんまか、大将!」
 十八の豹吉を大将と呼んだ。
「大将大将いうな。日本に大将なんかあるもんか。さア、二人とも道具かたづけて、おれの尻について来い」
 やがて豹吉が南海通の方へ大股で歩き出すと、次郎と三郎は転げるようにしてチョコチョコついて来た。
 南海通の波屋書房の二、三軒先き、千日前通へ出る手前の、もと出雲屋のあったところに、ハナヤという喫茶店が出来ていた。
 ハナヤはもと千日前の弥生座の筋向いにあった店だが、焼けてしまったので、この場所へ新らしくバラックを建てたらしかった。
 バラックだが、安っぽい荒削の木材の生なましさや、俗々しいペンキ塗り立ての感じはなく、この界隈では垢抜けした装飾の店だった。
 豹吉はハナヤの前で再び腕時計をみた。十時……。
「丁度だ」
 はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。
「間抜けめ!」
 低いが、豹吉の声は鋭かった。
 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。
 鋭利な刃物が咄嗟に走ったらしかった。走らせたのは豹吉だ。
 豹吉はあっけに取られている男の耳へ口を近づけると、
「掏るなら、相手を見て仕事しろ」
「豹吉だなア」
 男はきっと睨みつけると、覚えていろと、雑踏の中へ姿を消した。
「間抜けめ! お前のような間抜けのことをいつまでも覚えてられるか」
 ひょいと出た洒落に押し出されるような軽い足取りを弾ませて、兄弟を連れてはいると、豹吉は素早く店の中を見廻した。いない……すかされた想いに軽く足をすくわれて、ちょぼんと重く坐ると、
「なんや、雪子はまだ来てないのか」
 めずらしく寂しい影がふと眉の上を走った。
 雪子――。
 記憶の良い読者は覚えているだろう。
 小沢と一緒に阿倍野橋の宿屋に泊った裸の娘が、宿帳をつける時「雪子」と自分の名を言ったことを……。
 その雪子だ。
 豹吉があれほど時間を気にしてハナヤへやって来たのは、実はその雪子が毎日十時になると、必ずハナヤへ現れるからであった。
 しかも十時前に来ることはあっても、十時に遅れることはない。
 律義な女事務員のように時間は正確であった。
 まるで出勤のようであった。しかし、べつに何をするというわけでもない。ただ十時になると、風のようにやって来て、お茶を飲みながら、ちょぼんと坐っているだけだ。そして半時間たつと再び風のように出て行くだけである。一日も欠かさなかった。
「変な女やなア」
 豹吉はそう思う前に、まずその女が眼触りであった。
 ハナヤは豹吉やその仲間のいわば巣であり、ハナヤへ来れば、仲間の誰かが必ずトグロを巻いていて仲間の消息もきけるし、連絡も出来る。
 ところが、仲間でも何でもない得体の知れぬ女が、毎日同じ時刻に、誰と会うわけでもなく、一人でトグロを巻きに来ているのだ。
 たしかに眼触りであった。
「君何ちゅう名や」
 女にはこちらから話し掛けたことのない豹吉だったが、ある日たまりかねて話し掛けて行った。
「雪子……。名前きいてどないするの……?」
「まさか、惚れようと思ってるわけやないが……」
 と、十八歳とは思えぬませた口を豹吉は利いて、
「――ちょっと気になるな」
「何が……?」
「誰に会いに来た(北)やら南やら……?」
「ふん」
 と、豹吉のまずい洒落を鼻の先で笑って、
「――たぶんあんたに会いに来たンでしょう。――さア帰ろうッと」
 起ち上ると、じゃ明日また……と、雨の中へ風のように出て行った。
 豹吉は軽い当身をくらったような気がして思わず畜生とついて行きかけたが、何かすかされた想いに足をすくわれてぽかんと後姿を見送っていた。
 後姿が消えても、白い雨足をいつまでも見ていた。
 すると、豹吉は雪子に無関心でおれなくなった自分をぴしゃりと横なぐりの雨のように感じて、ふと狼狽した。
 それが、昨日のことであった。
 そして、今日――。
「何だい、あんな女……」
 と、思いながらもやはり豹吉は十時にやって来たのだ。
 ところが、雪子は来ていなかった。こんなことは今までになかったことだと、もう一度見廻すと、若い娘の媚を含んだ視線に打っ突かった。
 しかし雪子ではなかった。

「なんだ、お加代か」
 豹吉はペッと唾を吐いた。
 同じ仲
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