人ですか」
「いや、女と一緒です」
「どうぞ……」
 新円の効き目だった。
 小沢は娘を呼びに出た。
 そして、娘を自分の背中にかくすようにして、はいった。
 女中はちらりと娘をみたが、さすがに連込み宿らしく、うさん臭そうな眼付きもせず、二階の部屋へ二人を案内した。
 鍵の掛る、粗末なダブル寝台のある洋風の部屋だった。
 女中は案内すると、すぐ出て行ったが、やがて、お茶と寝巻を持って来た。
「お名前をこれに……」
 小沢は自分の姓名を書いて渡そうとすると、
「こちらさんのお名前もご一緒に……」
 と、椅子の上で体をすくめている娘の方は見ずに、女中は言った。
 小沢はちらと娘の顔を見た。
「雪子……」
 娘は察して言った。
 小沢は自分の名前の横に「妻雪子 二十歳」と書いて、女中に渡すと、
「お休みなさい」
 女中は出て行った。
 小沢はほっとして、部屋の中を見廻した、寝台は一つしかなかった。その上の方に、安っぽい女の裸体画の額が掛っていた。
「なるほど、こりゃいかにも連込み宿だ」
 小沢は改めて感心したように呟きながら、苦笑した。
 ダブル寝台――といっても、豪華なホテルにあるような、幅の広い寝台ではない。シングル(一人用)の寝台より少し幅があるように見えるだけで、ただ枕が二つ並んでいるのでダブル寝台といえるわけだ――その上に煽情的といっていいくらい派手な赤い模様の掛蒲団が、掛っている。
 そして、寝台の枕元の壁には、安っぽい裸体画の油絵の額が掛っている。わざと裸体画を選んだのであろう。
 たしかに苦笑せざるを得なかった。
 経営者はこの部屋の使用される目的にふさわしいように、そんな額を掛けたのに違いない。
 そして絵の安っぽさはかえって効果的だと言えるかも知れない。
 けれども、そのような絵は往々にしてこの部屋へ来る客たちを照れさせ、辟易させるという意味で逆効果を示す場合もあろう。
 すくなくとも小沢は辟易していた。
「まるでわざとのように、こんな絵を掛けやがった」
 そう思ったのは、しかし一つにはその絵がレインコートのすぐ下の娘の一糸もまとわぬ裸体を聯想させるからであった。
「とにかく、この裸を何とかしてやらなくっちゃならない」
 幸い女中の持って来た寝巻があった。が、娘は小沢の見ている前では、恥かしくてよう着更えまい。
「君、これを着たらどうだ」
 小沢はそう言って、いきなり部屋の外へ出て行った。
 そして、わざとゆっくり便所から帰って来ると、娘はちゃんと寝巻に着更えていた。
 しかし、その寝巻は寸法が長いので、娘は裾を引きずっていた。それが滑稽でもあり、そしてまた、ふと艶めかしくも見えた。
「長いね」
 小沢が言うと、娘は半泣きの顔になり、
「ふん」
 と、鼻の先で笑ったが、何思ったか急にペロリと舌を出して、素早くひっこめた。
 寝巻に着更えたので、やっと人心地が甦ったのであろうと、小沢もふと心に灯のついた想いがしたが、それだけに一層不幸そうな娘がいじらしくてならなかった。
「ところで、も一度きくけど、一体どうしてあんな恰好で飛び出したの」
 小沢は裸のことを、再びきいてみずには居られなかった。すると娘は急に悲しい声になって、
「それだけは、きかんといて……」
 大阪弁だった。
「じゃ、今はきくまい」
 と、小沢は今はという言葉に含みを残して、
「――とにかく、寝ることにしよう。君は寝台で寝給え」
「ええ」
 娘はうなずいて、素直に寝台に上りかけたが、ふと振り向くと、
「あなたは……?」
 どこで寝るのかと、きいた。

「僕はここで寝るよ」
 小沢は椅子に掛けたまま、わざと娘の顔を見ずに言った。
「そんなン困るわ」
 娘は寝台の傍で、ちょっと体をくねらせて、鼻に掛った声で言った。
 女の大阪弁というものは、含みが多い。だから、娘のその言葉、そしてその声は、何か安心したようにも、甘えて小沢を責めているようにも、そしてまた、恐縮しているようにも聴えた。
「そんなン困るわ」
 といったが、一体どういう風に困るのか、いや、本当に困るのか、小沢にはさっぱりその意味が汲み取れなかった。
 つまり、小沢にはその娘の心理がまったく解らぬのであった。
 なぜ解らぬのか……。
 ありていに言えば、小沢の心の底には、既にその娘への、ある種の(といってもいい位複雑な)関心がひそかに湧いていた――その関心があるために、もう娘の心理が解らなくなってしまったのかも知れない。
 その関心の中で、一番強いのは、やはり娘の体への本能的な好奇心だった。雨に濡れたあとの動物的な感覚が、たしかにその本能へ拍車を掛けていた。ことに、裸の娘と深夜の部屋に二人きりでいるという条件は、この際決定的なものであった。
 しかし、そんな風な、まるでおあつらえ向きの条件になった原因を考えると、小沢はやはりその娘の体に触れることが躊躇された。
「とにかく娘はおれに救いを求めたのだ。おれは送り狼になりたくたい」
 そう思ったので、小沢はもうサバサバした声で言った。
「困るも何もない。君は一人で寝台に寝るんだ」
「でも……」
「僕は椅子の上で寝るのは馴れてるんだから……」
 そう言うと、娘は暫くためらっていたが、
「じゃ、お休み」
 と、言って、寝台の中へもぐり込んだ。
 ちらと眼をやると、娘は掛蒲団の中へ顔を埋めている。眩しいのだろうか。
「灯り消そうか」
 小沢が声を掛けると、娘は半分顔を出して、
「ええ」
 天井を見つめたまま、うなずいた。
 小沢は立って行って、壁についているスイッチを押した。
 廊下の灯りも消えているので、外から射し込んで来る光線もなく、途端に真暗闇になった。
 手さぐりでもとの椅子に戻ると、小沢は濡れた服を寝巻に着更えると、眼を閉じた……。
 外は相変らずの土砂降りだった。
 何か焦躁の音のような、その雨の音が耳についてか、それとも……とにかく小沢はなかなか寝つかれず、いらいらしているとふっと、大きな溜息が寝台の方から聴えて来た。
 娘もやはり寝つかれぬらしい。
 そして、どれだけ時間がたった頃だろうか、娘はいきなり寝返りを打つと、声を掛けて来た。
「なんぜここへ来て寝ないの……?」

「えっ……?」
 小沢は思わず眼をひらいて、寝台の方を見た。
 暗がりで、よくは見えないが、たしかに娘はこちらの方へ顔を向けて寝ているらしい。
「…………」
 娘は暫らく黙っていたが、やがてちょっとかすれた上ずった声で、
「小沢さんはあたしが嫌いなんでしょう?」
 と、言った。
 小沢の名を知っているのは、さっき宿帳に書く時、覗いていたからであろうが、それにしても、いきなり自分の名を云ったので、小沢はちょっと意外だった。
 もっとも、この驚きには甘い喜びが、あえかにあった。
 復員者の小沢は、久しく自分の名を「さん」づけで呼ばれたことはなかった、しかも若い女の口から……。
「どうして……? 嫌いじゃないよ」
「じゃ、なんぜ……?」
「…………」
 小沢は返答に困った。暗がりをもっけの倖だと思った。まだ二十歳前後の若い娘が、そんな言葉を言っている顔を見るに耐えないばかりでなく、ふと赭くなった自分にも照れていたからだ。
「やっぱり嫌いなのね」
 小沢がだまっているのを見て、娘はもう一度その言葉を言った。
 小沢は黙々と立ち上った。そして怒ったような顔をして娘の横へもぐり込んだ。寝台には若い娘の体温と体臭がむうんとこもっていた。
 寝台は狭かったので、体温が伝わってきた。
 小沢は娘の寝巻の下が、裸であることを意識しながら、かえって固くなっていた。
 娘の方から寝台へ誘ったのだし、そして、べつにそれを拒みたい気もなかったので、少しはいそいそとしてそれに応じたのだし、今はもう二人があり来たりの関係に陥るには、簡単なきっかけだけが残っているに過ぎなかった。
 例えば、ちょっと腕を伸ばせば、娘の体は磁石のように吸い寄せられて来るのだ。それを拒もうとする羞恥心よりも、何かにすがりつきたいという本能の方が強いというのが、女の本性であることを、小沢は知っていた。
 好奇心は女の方が強いのだ。しかも若い娘の場合は、一層はげしいのだ。
 そう知っていながら、小沢はしかし腕を伸ばせなかった。いわゆるインテリの気の弱さであろうか。
 一つには、娘の正体がまったく解らないということも、小沢を自重させていた。それに、娘の方から寝台へ誘ったといっても、万一それが無邪気な気持からであったとすれば小沢の思い違いはきっと悔恨を伴うだろう。
「君、こうしていて怖くない……?」
 小沢はそうきいてみた。すると、娘は、
「怖くないわ、あたし怒らないわ」
 と言った。
 小沢は暫らく口も利けなかった。
 その夜のことは小沢にとって思いもかけぬことばかしであったが、しかし、娘のその言葉ほど小沢を驚かせたものはなかった。
「これが若い娘の口から出る言葉だろうか。いや、恋人に言うならまだしも、おれはただ行きずりの男に過ぎないじゃないか」
 小沢は間抜けた顔をして、芸もなくなっていたが、やがて口をひらくと、
「本当に、何をされても平気なのか。僕がどんなことをしても、怒らないのか」
 娘は黙ってうなずくと、そっと小沢の方へ寄り添うて来た。
 小沢は身動きもしなかった。指一本動かさなかった。そして、
「君は今まで……」
 と、思わず野暮な声になって言った。
「男と宿やへ来たことがあるのか」
「え……?」
 娘は不意を突かれたように、暫らくだまっていたが、やがて、つんと顎を上げると、
「――あるわ」
 もう昂然とした口調だった。
「ふうん」
 小沢は何か情けなかった。
「――好きな男と……?」
「好きな男なんかあれへん」
「じゃ。嫌いな男とか……?」
「嫌いな男もあったわ」
「嫌いな男とどうしてそんなことをするんだ?」
 われながらおかしい位、むきになっていた。
「食うためよ。あたしの罪じゃないわ」
 寝る前とは打って変ったように、娘はズバリと言ってのけた。
「じゃ、君は……?」
 ちょっと躊躇したが、思い切って、
「――僕に体を売るつもりか」
「違うわ。あんたにはお金なんか貰えんわ。あんたはあたしを助けてくれたでしょう。だから……」
「だから、どうだっていうんだ」
「だから、あんたが何をしてもかめへんと思ったのよ」
「そんなお礼返しは真っ平だ。――だいいち僕がそんなことをすると、思ってるのか」
「だって……」
 と、娘は甘えるように、
「――男って皆そんなンでしょう……?」
「そりゃ君の知ってる男だけの話だ」
「…………」
「莫迦だなア、君は……。僕が好きでもないのに、そんなことをいう奴があるか。さアもう寝よう」
 小沢はくるりと娘に背中を向けた。娘の商売が判ってしまうと、かえって狂暴な男の血が一度に引いてしまったためか。それとも一種のすねた抗議の姿態だろうか。
 娘は暫くだまって肩で息をしていたが、いきなり小沢の背中に顔をくっつけて、泣き出した。
「何を泣いてるんだ……?」
 小沢はわざと冷淡な声を出しながら、窓の外の雨の音を聴いていた。……

    悪の華

 午前六時の朝日会館――。
 と、こうかけば読者は「午後六時の朝日会館」の誤植だと思うかも知れない。
 たしかに午前六時の朝日会館など、まるで日曜日の教室――いや、それ以上に、ひっそりとして、味気なくて、殺風景でいたずらにがらんとして、凡そ無意味な風景であろう。
 しかし、午前六時の朝日会館を描くことは、つねに無意味だとは限らない。
 例えば、そんな時刻、そこには鼠は走り廻っても、猫の子一匹もいない筈だのに、時ならぬ、場違いの鼾《いびき》が聴えて来たとすれば、もはや無意味ではあるまい。まして月並みではない。
 鼾は公演場の休憩室の隅にあるソファから聴えていた。
 いつ、どこから、どう潜り込んだのか、そのソファの上で、眠っている人間がいるのだ。
 宿なしにしては気の利いた寝床だ。洒落ている。洒落ているといえば、宿なしとは見えぬくらい、洒落た服装である。
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