て、失われていない。
 まして、豹吉は脛に傷を持つ人間だ。おまけに、これからS署の中でやろうとしていることを考えると、まるで玄関の石段は氷の階段であった。しぜん、固い姿勢になったのだ。
 その固い姿勢のまま、石段を登って、扉を押そうとすると、
「やア」
 と、声を掛けられた、
「やア、変なところで会いますね」
 普通なら驚くところだったが、自分はけっして、驚かないという豹吉だ。つとめて平気な顔をして――いや、むしろ微笑して、つまり、可愛いえくぼを浮かべて、豹吉はそう言った。
 声を掛けたのは――小沢だった。
 小沢はちょうどS署の扉を押して、出ようとしているところだった。
 小沢がなぜS署から出て来たのか。どんな用事で、S署へ来ていたのか――それはしばらく読者の想像に任して置いて、さて――。
「うん。奇遇だね」
 小沢も微笑を泛べて、
「――さっきはどうも……」
 と、言った。
「いや、こちらこそ……」
 中之島公園でのことを想い出して、豹吉は微笑しながら、
「――こんなところで、会おうとは思わなかったよ」
「いや、案外会うんじゃないかと思っていた」
 小沢はにやにやしながら、言った。
「えっ……?」
 それには答えず、小沢は、
「ところで、君ひとり……?」
「……? ……」
 豹吉には小沢のきいていることが、直ぐには判らなかったが、やがて、
「ああ」
 と、豹吉流に解釈して、
「――むろん一人です!」
 昂然と胸を張って答えた。
「そう……? しかし、まア、一人でもいいだろう」
「一人で十分ですよ」
「そりゃ、一人でも悪いとはいえないが……。とにかく、はいり給え!」
 そして小沢は急に声をひそめると、
「――君、自首しに来たんだろう……?」
「自首……?」
 豹吉は思わずきき直した。
「そうだ。しかし、よく自首する気になったね。大したもんだ」
 小沢はひとりでそう決めていた。

 豹吉はあっけに取られた、腹が立つというより、むしろ噴きだしたかった。
「早合点もええ加減にしろ。ここは中之島公園とちがうぞ」
 と、豹吉は例の唾をペッと、S署の玄関の石段の上へ吐き捨てて小沢に言った。
「――誰が自首なんかするもんか」
「じゃ、何しに来たのだ……?」
「…………」
 咄嗟に答えられなかった。雪子を救いに来たと言えやしない。
「正直に云ったらどうだ。自首だろう……?」
「…………」
「年貢の収め時――という古くさい言葉があるが、君もそこへ気がついたのは莫迦でなかったよ。ガマン(刺青)の針助はとっくにつかまったんだから」
 と、小沢は普通の調子で言った。
 読者はもう想像がついたであろう。小沢が何のためにS署へ来ていたかということを。
 察しのつく通り、小沢は細工谷の針助の家で針助を縛りあげるとその足で、S署へ送ってきたのだった。
 わざわざS署をえらんで送って来たのは、雪子の行方を空しく探し廻っているうちに十時が来て中之島公園へ駈けつけようとしてS署の前を通り掛った時、警官に連れられてS署の玄関へはいって行く雪子の姿を見たからであった。
 小沢は針助を送って行くと、針助の家にあった雪子の著物を署員に見せて、
「この著物がないため、あの娘はふと魔がさして宿屋の著物を盗んだのです」
 と、雪子のために弁明し、釈放をもとめたが、生憎雪子の係の刑事は、当直ではなかったので、雪子を留置するとそのまま自宅へ帰ってしまっていた。
 小沢はその刑事が翌朝出署してから、改めて交渉しようと、ひとまずS署を辞すことにして、玄関を出ようとした途端、豹吉に出会ったのである。……
「えっ、針助が……?」
 つかまったのかと、豹吉はもう少しで、掟を破って、驚くところだった。
「そうだ。針助は何もかも白状したよ。君たち青蛇団はみんな、針助の針にひっ掛って、背中に蛇の刺青をしているそうだね」
「…………」
 豹吉は唸っていた。
「いずれ一斉検挙になるだろう。今のうちに自首したらどうだ。いや、自首するつもりで来たんだろう」
「大きなお世話だ」
「いや、世話を焼きたいよ。君たちのように若い青年が、刺青をしたまま、一生悪事を働いて暮すのかと、思うと黙って放って置けない」
「ふーん。黙って放って置けんからそれで密告したんやな。ご立派だよ」
 豹吉はきっと小沢を睨みつけた。
「密告……? まさか。密告するくらいなら誰も一人で中之島へ行きやしない。あの時、警察のトラックに乗って行けばよかったんだ。しかし、そんなことしたくないからわざわざ一人で行って、今もこうして自首をすすめているのじゃないか」
「ほな、どうしても自首せエいうのやな」
 豹吉の声は急に力が抜けていた。
「そうだ、どうあっても自首しろと言いたいのだ」
 小沢の声は、豹吉の何か弱まった声と反対に、急に決然とした調子を帯びて来た。
「君たちは敗戦につきものの混乱と頽廃の園に咲いた悪の華だ。が、日本はもう混乱、頽廃から起ち直ってもいい頃じゃないか。それにはまず、悪の華をなくしてしまう必要がある。しかし、僕は何もいきなり刈り取ってしまおうとは思わない。それよりも、むしろ君たち悪の華が向日葵の花のようになることを、望んでいるのだ。悪の華は夜光虫の光に憧れる。が、向日葵は太陽の光線に向って伸びて行くのだ。夜光虫の光と太陽の光と、君たちはどちらを選べばいいのか。……むろん、太陽の光だ。夜光虫の光に憧れた君たちこそ、一層太陽の光に憧れなければならぬ筈だ。いや、君たちは内心ひそかに太陽の光に憧れている筈だ。……と、僕は思う、それとも君たちはあくまで夜光虫の……」
「判った」
 豹吉はいきなり小沢の言葉をさえぎった。
「――判ったよ。自首しよう」
「えっ……」
「もう面倒くさくなった。自首すればいいんだろう。自首するよ。自首する勇気もないのかと思われたくないからな」
 豹吉はぺっと唾を吐くと、
「――どうせ、雪子の救い出しに失敗して、ぶち込まれるにきまっているのだ」
 と、ひそかに呟いた。
 豹吉が単身このS署へ雪子を救い出しに来たのは、はっきりと救い出せるという確信があって来たというよりも、むしろ雪子が留置されている場所へ少しでも近づきたいという気持でやって来たのだった。
 してみれば、自首をすすめられたのは、まるでもっけの倖いかも知れなかった。いや、何かサバサバした気持だった。
「自首という手もあったんだな」
 自首して留置されれば、雪子に近づけるわけだ。と、思ったのだ。
「手間がはぶけて、手っ取り早いわい」
 そう呟いたが、しかしさすがに豹吉はふと寂しそうだった。
「そうか、自首してくれるか。ありがとう」
 小沢の声は思わず弾んだ。
「そんなにうれしそうな顔をして、礼を言うのはやめてくれ。けったくそ悪いよ」
 豹吉は再び唾を吐いて、扉の中へはいって行こうとした。すると、小沢はあわてて、
「いや、一寸待ってくれ。僕は君ひとりやりたくない」
「じゃ、誰とや……」
「君の仲間と一緒に自首させたい」
「おれに、仲間を説き伏せろというのやな」
 豹吉はふとブルウスカイで待っている青蛇団の連中の顔を、想い出した。
「そうだ、虫のいい願いだが、そうしてくれないか」
 豹吉は石段の上へ眼を落した。睫毛がかぶさって眠っているようだった。やがて、ふと顔を上げると、
「あんたの役はいい役やなア。同じ自首をすすめるのでも、おれの方は悪い役まわりや」
 しょんぼりした声だが、しかしふとえくぼが泛び、したたるような微笑をたたえながら豹吉は言った。

 小沢は急に眉を曇らせた。
「あんたの役はいい役やなア」
 という豹吉の言葉が、皮肉のようにも、また小沢を責めているようにも聴えたのだ。
 なるほど、考えてみれば、小沢は得意の雄弁にものを云わせて、豹吉に自首の決心をさせることに成功したが、もうそれだけで充分満足すべきであった。
 が、小沢はなおそれ以上のことを、要求した。ブルウスカイで待っている青蛇団の連中を説き伏せて、一緒に自首しろ――という難題だ。
 豹吉にとって、これほど辛いことがまたとあろうか。
 むごい――という言葉があてはまる。たしかに、むごすぎる。
 さすがの小沢も、
「おれは今血も涙もない、非情の石ころになっているのかも知れないぞ」
 と、もはや豹吉の顔を正視するにしのびなかった。
「しかし、心を鬼にして――ということがある」
 大阪の市民のため、ひいてはこの国の社会の秩序のため――いや豹吉はじめ青蛇団の連中が、向日葵のように太陽の子に甦生するためにも、心を鬼にして非情の石となって、無理な要求をしなければならぬと、小沢はあわてて自分に言いきかせると、もうきっと冷かな眼をして、
「…………」
 豹吉の少女のような美しい、しかし、やや青ざめた顔を、見つめた。
「…………」
 豹吉も暫らくだまって、小沢を見つめていたが、やがて、投げやりのような微笑をふっと泛べると、
「仕様がない。癪やが、あんたのいう通りにする。あんたには負けたよ。――三十分ここで待っていてくれ。皆んなを連れて来る」
 と、言いながら石段を降りて行こうとした。
「あ。君」
 と、小沢が呼び停めようとすると、豹吉はふと振り向いて、
「心配しなはんな。逃げたりするもんか」
 石段を降りると、豹吉はやがて梅田新道の方へ姿を消した。
 そして半時間たった。
 夜が沈み、小沢の心も重く沈んでいた。
 その重い心の底を、五月の風がさっと冬の風のように吹き渡り、小沢は何か寒々とした想いで、S署の玄関に佇んでいたが、やがてひょいと顔をあげた途端、小沢ははっとした。
 豹吉、お加代、亀吉、唖娘――その他中之島公園で見た青蛇団が一人残らず、風に吹かれて、風のように、小沢の眼の前に現れたのだ。
 予期していたものの、豹吉がこんなに早く説得して連れて来たのを見ると、さすがに驚いた。
 風のように現れた一同は、やがて石段を、氷のような石段を登ると、風のようにS署の中へ姿を消してしまった。
 小沢はそのうしろ姿をじっと見送ったまま、ついて行こうとしなかった、ついて行く気もしなかった。いや、ついて行けなかったのだ。小沢の眼はいつかうるんでいた。

 S署の刑事室――。
 自首した青蛇団の連中の表情には、少しも暗い翳はなかった。
 ことに、豹吉は昂然として、寂しそうな顔なぞ見せず、
「おれたちは堂々と自首したのよ」
 という自虐的な快感を覚えていた。
 それに、豹吉にとって、ますます愉快なことには、青蛇団が自首したことで刑事はすっかり驚いてしまっていた。
 小沢がふん縛って連れて来たガマンの針助の自白によって青蛇団の正体はもう明らかになっていた。だから、S署では明朝を期して、一斉に検挙の網を打とうと考えていた。
 そこへ、いきなり青蛇団が自首して来たのだ。
 針助がつかまったことを、知ってか、知らずにか、――とにかく、意外だった。まさか自首して来ると思えなかった。よしんば、自首を計算に入れていたとしても、その来方があまりに早すぎる。
 だから、刑事は驚いたのだが、その表情を見ると、豹吉は煙草の味がうまかった。
「人を驚かせるが、自分は……」
 云々。
 つまり、自首したということは、「何か人をあっといわせるような、意表外のことを……」
 と、つねに考えている豹吉の心にかなったわけだった。
 いいかえれば、効果は十分にあったのだ。
 そう思うと、豹吉はますます相手の刑事を、あっと言わせてみたくなった。
 一応、取り調べが済むと、豹吉は言った。
「……ほかにもう一つ、悪いことをしました」
「ふーん。なんだ、どんなことだ」
「人を殺しました」
「えっ……?」
 と、刑事は驚いた。効果はやはりテキメンだった。
「――いつ、どこで……?」
 豹吉は少年らしい虚栄に胸を張って、
「今朝、六時頃渡辺橋で釣をしている男を、川へ突き落して、殺しました」
「えっ……?」
 と驚いたのは刑事よりも青蛇団の連中だった。
「なるほど、釣をしていた男をか。う、ふ、ふ……」
 刑事の方は気味のわるい笑いを泛べているだけだった。驚
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