いていないのだ。
豹吉は拍子抜けした。何かすかされた感じだったから、もう一度声をはげまして、
「殺人罪です、すぐ送局して下さい。覚悟はしています」
と、言った。
「まア、そのことはあとで調べる。――とにかく、はいっとれ。おい、煙草は捨てるんだ」
にやにやしながら、一同を留置場へ連れて行った。
お加代と唖娘は女の留置場へ――。
豹吉は亀吉たちと一緒に留置場の小さな入口――というより、穴をくぐってはいった。
そして、じろりと中を見廻した途端、
「あッ!」
豹吉は思わずぎょっとして、棒を呑んだようになった。
豹吉がぎょっとしたのは、針助が坐っているのを見たからではない。
針助がつかまったことは、小沢から聴いていた。
だから、そのことでは、豹吉は驚かなかった。
豹吉が見たのは――。
留置場の隅の方に、しょぼんと坐っている伊部の姿だった。
伊部――今朝、渡辺橋で釣をしていた得体の知れぬ奇妙な男!
その男を殺した――と、たった今刑事に白状して来たのだ。
ある時は、その殺したという罪で、自責の念にかられ、ある時はそのことを昂然と口にすることで少年らしい虚栄心を満足させて来た――いわば、今日一日とにもかくにも豹吉の心を支配して来たその男――死んだ筈のその男が、豹吉の眼の前に坐っているのだ。
さすがの豹吉もぎょっとせざるを得なかった。
われにもあらず、驚いたのだ。掟を破ったのだ。すかさず、亀吉が言った。
「兄貴、どないしたんや。顔色変えて……」
「どないもこないもない。こんなに、びっくりしたのは、生れてはじめてや」
「ほな、千円くれ」
「……? ……」
「兄貴のびっくりしてる所を見たら、千円くれる約束やったな」
亀吉は手を出した。
「阿呆! ここは豚箱やぞ。一銭も持ってるか」
豹吉はそう言って、伊部の方へ寄って行った。
「よう。君か。ひょんな所で会うたな」
伊部はにやにや笑っていた。
「生きたはりましたんか」
豹吉はすっかり大阪弁だった。
「うん。泳ぎを知ってると、なかなか死ねんもんでね」
「あ」
と、豹吉は釈然として、伊部が死んだものと思い込んでいた自分の間抜けさ加減に苦笑したが、しかし、なぜ伊部が留置場に入れられているのか、これは判らなかったので、きくと、
「なアに、一水浴びた勢いで、浴びるようにアルコールを飲んだんだよ。酔っぱらって、素裸で歩いてたらしいね」
「泳ぎを知ったはるとは、知りまへんでしたなア」
「泳ぎか。およばずながら、亀みたいもんだ。あはは……」
亀ときいて、亀吉は自分のことを言われたのだと、勘違いして、
「あのウ、わては金槌だンね」
と、黒い顔を突き出した。
「なんだ、お前は……?」
「青蛇団だす」
亀吉はぱっと上衣を脱ぎ捨てると、背中を見せた。
青い蛇の刺青!
「お前雪子という女知ってるか……?」
伊部はいきなりきいた。
豹吉ははっとした。伊部が雪子を知っているとは意外だった。が、それよりもなぜ、いきなり雪子の名を口にしたのだろうか。
朝の構図
「偶然というものは、続きだすときりがない」
と、作者はかつて書いた。
「偶然のない人生ほどつまらぬものはない」
とも書いた。
例えば、小沢十吉!
普通なら、彼は復員直後の無気力な虚脱状態のまま、一種、根こぎにされた人となって、ぼんやり日を送ったところだろうが、深夜雨の四ツ辻で、裸の娘を拾ったという偶然は、次々に偶然を呼んで、まるで欠伸をする暇もないくらい、目まぐるしい一昼夜を過したのだ。
いわば、雪子を拾った夜から青蛇団の一党を自首させた夜までのまる一昼夜くらい、充実した時間は、かつて小沢を訪れなかった――と言えよう。
しかも、なお、偶然は小沢をつきまとって離れなかったのだから人生は面白い。
雨男の行くところ、必ず雨を呼び起すように、この「偶然一代男」の行くところ、必ず降り掛かる偶然があるのである。
例えば――。
小沢はS署の玄関で、豹吉たち青蛇団を見送った足で、伊部の家を訪れると、伊部は(むろん)居らず妹の道子ひとり、しょんぼり留守番をしていて、
「兄さんはS署に留置されているのです。どんな悪いことをしたのか、知りませんが、明日あたしに出頭しろと、S署から云って来ました。小沢さん、お願いです。あたしと一緒にS署へ行って下さいません……?」
と、いうのである。
「S署……?」
と、小沢はきいて驚いた。実は小沢は……
「――僕も明日S署へ行くんです。いや、行かねばならないんです」
雪子の釈放のこともあったし、自首した豹吉たちのことも気になっていた。
「じゃ、今夜はここでお泊りになって下さい……」
若い娘一人では物騒で、寂しい――と、道子は赧くなって、モジモジ言った。
「はア、でも……」
と、小沢は躊躇したが、考えてみれば宿なしだ。
夜も更けている。それに、まさかアベノの宿屋へも行けない。
「そうですね」
と、ちょっと考えるように言って、
「――じゃ、お世話になりますかな」
「はあ。どうぞ!」
道子の眼は急にいきいきと輝いた。
小沢はその眼を見ると、はっとした。
そして、お互い暫く言葉もなくじっと眼と眼を見合っていた。
道子の顔は何か上気して、ぼうっと赧かった。小沢は自分の顔の筋肉がこわばっているのを、意識してふと心の姿勢が崩れて行く危なさに、はっとした。
夜は次第に更けて行った。
が、作者はこの二人にとっては、かなり重要だった一夜を描写する暇をもはやもたない。先を急ごう。
なぜなら、翌朝小沢と道子がS署へ行った時、二人を待ち受けていた偶然の方が、作者にとって興味が深いからだ。
小沢と道子がS署へ出頭した時二人を待ち受けていた偶然とは――。
まず、小沢は雪子の係の刑事に会うて、雪子の釈放を求めた。
刑事は雪子を留置場から呼び出して、事情をきいた。
雪子ははじめ、なぜ裸のまま飛び出したのか、その理由を語ろうとしなかったが、小沢が傍から、
「君、何もかも言い給え。こちらではちゃんと判ってるんだよ。ガマンの針助がつかまって、すっかり自白したんだから」
と言うと、ほっとしてはじめて、裸のまま針助の家を飛び出した理由を語った。
夜の女だった雪子は、針助と知らずに袖を引いて、針助の家に連れ込まれて、危く刺青をされようとした。
だから、逃げたのだが、しかし、もしそのことを小沢に言ってしまえば、青蛇団の秘密がばれてしまう――と、おそれたのである。
雪子は青蛇団とはゆかりはなかったが、青蛇団の豹吉には、弟に対するような愛情を抱いていた。
だから、青蛇団をかばいたかったのである。
アベノ橋の宿屋で着物を盗んで逃げたのも、ふと魔がさしたとはいうものの、実は小沢が帰って来て、いろいろ問い訊されると、もう隠し切れないかも知れない――と、思ったからと、一つには、これ以上小沢に心配をかけたくない――と、思ったからだった。
その雪子の話をきいて、一番喜んだのは誰か。むろん道子である。
「あ、そうだったのか。小沢さんが女の着物がほしいとおっしゃってたのは、そのためだったのか」
道子は小沢を疑っていたことを、済まなく思った。
雪子はそんな道子を見て、さすがに敏感に小沢と道子の仲をかぎつけた。だから、アベノ橋の宿屋では、小沢と自分との間に何一つやましいことはなかったということを、つけ加えることを、忘れなかった。
しかし、そのことを話しながら、雪子はふっと寂しかった。
「でも、あたしは汚れた商売女やもの」
雪子はひそかに自分に言いきかせて、諦めていた。
刑事は事情をきいて、釈然とした。それにガマンの針助をつかまえたという小沢の功労に報いるには、小沢の願いをきき入れてやるのが何よりだと思った。
夜の女であったということも、充分罪にする理由だったが、雪子も充分改心して地道な生活にはいると誓ったので、刑事は説諭と始末書だけで、釈放することにした。
やがて雪子は小沢の手によって針助の家から取り戻された着物に着かえて、刑事室を出ようとした途端、
「あッ!」
と声を立てた。
留置場からその部屋へ連れて来られる伊部の姿を見たのだった。
「やア。君か」
伊部も雪子を見ると、にやりと笑った。
伊部と雪子は知り合いだったのだ。
しかし、偶然はただそれだけではなかった。
雪子は伊部を見ると、すぐ伊部のうしろから刑事室へ戻って、
「お願いです[#「お願いです」は底本では「お顔いです」]。青蛇団の刺青をとってやって下さい」
と、いきなり言った。
(作者はここで最後の偶然を述べねばならない)
即ち、雪子はある夜、伊部とゆきずりの一夜を明かした。
その時、伊部が外科の医者で、刺青を除去する手術を今まで何度もやった経験があるということを知った。
雪子は豹吉たちのことを想い出した。豹吉が悪の道へぐれて行ったのは、背中の刺青という重荷のためであることを、雪子は知っていた。
雪子はその夜伊部に、豹吉らの刺青をとってやってくれと頼んだ。が、伊部は、
「面倒くさい」
と、言って、応じなかった。が、雪子は執拗だった。伊部は仕方なく、
「じゃ、気が向いたら手術をしてやろう」
「でも、いつあなたにお会い出来るか知れしません」
「じゃ、こうしよう。君のよく行く千日前のハナヤという喫茶店へ午前十時に行って三十分間だけ待ってろ。気が向いたら行く」
雪子はだから、毎日ハナヤへ行って、伊部を待っていたのである。が、伊部はやはり、面倒くさがって行かなかった。
「――毎日待ってました。お願いです。刺青をとってやって下さい」
「だって、あいつらは留置場へはいってるんだ。留置場へはいってるものを、手術しろはむりだよ」
伊部は一応断ったが、しかし、刑事もそして小沢も、いや、道子までが口をそろえて口説いた。刑事は言った。
「伊部さん、とってやって下さい。何も留置場の中で手術してくれとは言いませんよ。どうせ彼等は少年刑務所へ一応送られるが、しかし、出て来るとまた刺青のために横へそれるにきまっている。刺青があれば真面目な働きもしにくいですからな。こちらも何とか便宜をはからうから、一つやってみて下さい」
小沢も言った。
「君はこの頃は何もせず、ぶらぶらしているそうじゃないか。道子さんが心配して毎日泣いてるよ。伊部君、この刺青をとる手術をきっかけに、もう一度病院の仕事へ戻ってくれ。君のデカダンスはそりゃ判らぬこともない。しかし、そろそろ君も太陽の光の下へ出たらどうだ」
道子も必死だった。
「兄さん、お願いです。仕事して頂戴! 折角今日こうして許していただいて、うちへ帰っても、今まで通りだったら、何にもならないわ」
伊部は暫く考えていたが、やがて、
「よし、やろう。あの刺青が燈台もと暗しでおれの家の近所で植えつけられたのも、何かの縁だ。それに、おれはあの青蛇団と留置場の中ですっかり仲良しになったんだよ。彼等の気持は、おれが一番良く知ってるんだ。大量手術でむつかしいが、彼等の背を真白にしてやることは、彼等の心の汚れを取るばかりでなく、同時におれのデカダンスのクリニングになるかも知れない。そう思えば、ヤリ甲斐はあるかも知れないよ。あはは……」
伊部の口から久しぶりにいきいきした朝の笑い声だった。
作者に[#「作者に」はママ]この物語を一まずここで終ることにする。豹吉やお加代や亀吉がやがて更生して行くだろう経過、豹吉とお加代、そして雪子との関係、小沢と道子の今後、伊部の起ち直りの如何……その他なお述べるべきことが多いが、しかしそれらはこの「夜光虫」と題する小説とはまたべつの物語を構成するであろう。
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
初出:「大阪日日新聞」
1947(昭和22)年5月24日〜8月9日
※「憂鬱」と「憂欝」の混在は底本通りにしました。
入力:林清俊
校正:小林繁雄
2008年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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