一種のすねた抗議の姿態だろうか。
 娘は暫くだまって肩で息をしていたが、いきなり小沢の背中に顔をくっつけて、泣き出した。
「何を泣いてるんだ……?」
 小沢はわざと冷淡な声を出しながら、窓の外の雨の音を聴いていた。……

    悪の華

 午前六時の朝日会館――。
 と、こうかけば読者は「午後六時の朝日会館」の誤植だと思うかも知れない。
 たしかに午前六時の朝日会館など、まるで日曜日の教室――いや、それ以上に、ひっそりとして、味気なくて、殺風景でいたずらにがらんとして、凡そ無意味な風景であろう。
 しかし、午前六時の朝日会館を描くことは、つねに無意味だとは限らない。
 例えば、そんな時刻、そこには鼠は走り廻っても、猫の子一匹もいない筈だのに、時ならぬ、場違いの鼾《いびき》が聴えて来たとすれば、もはや無意味ではあるまい。まして月並みではない。
 鼾は公演場の休憩室の隅にあるソファから聴えていた。
 いつ、どこから、どう潜り込んだのか、そのソファの上で、眠っている人間がいるのだ。
 宿なしにしては気の利いた寝床だ。洒落ている。洒落ているといえば、宿なしとは見えぬくらい、洒落た服装である。
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