ペコペコや」
 昼日散々、反吐が出るくらい豹吉に食べさせて貰ったのに、三郎はもう腹の皮がひっつきそうだった。
「うん。わいもペコペコや。――銭があったらなあ。もう一ぺんハナヤへ行てうんと食べこましたるんやけどなア」
 と、次郎が言うと、三郎は、
「そや、そや、食べたあとは包んでもろて母ちゃんに土産にする」
「ああ、銭がほしい。――大将、靴みがきまひょ」
「大将、みがきまひょ!」
 一人の男が通り掛ったのだ。
 男はすっと寄って来た。
「オー・ケー」
 おおけに――と、O・Kの意味の二つを含んで言い、次郎がブラシを取り上げて、ひょいと顔を見ると、昼間ハナヤで見た亀吉だった。
「おい、お前ら、兄貴知らんか」
 亀吉は豹吉の居所をききに来たのだった。
「兄貴テ……? ああ、あの掏摸さんだっか」
 と、次郎と三郎は、昼間ハナヤで豹吉を兄貴と呼んでいたことを、想い出した。
「こらッ、大きな声を出すな!」
 街頭で、掏摸という言葉が出ると、さすがに亀吉は臆病だった。
「――あれから、どこイ行きよったか、知らんか」
「さア、知りまへんな。用事だっか」
 と、次郎はませた口を利いた。
「用事どころかいな。一大事や」
 亀吉は声をひそめた。そして、
「――困ったなア。ほんまにどこイ行きよってんやろなア。ひとがこない探しとるのに……」
 と、ブツブツ口の中でひとりごとのように言っていた。
「ハナヤできいても分れしめへんか」
「うん。今、ハナヤへ行って来たばっかしや」
 そう言いながら、亀吉はキョロキョロそのあたりを見廻していた。
「それより、大将、ついでやさかい、靴みがきまひょか。大将の靴ドロドロだっせ」
 三郎がブラシを取り上げると、亀吉は、
「阿呆! 靴どころのさわぎか。兄貴を探すのにキリキリ舞いしてるんや。さア、ぼやぼやしてられん」
 そわそわと行きかけたが、ふと戻って来ると、
「――お前ら、兄貴を見たら、おれが探してる、すぐハナヤか中之島の図書館イ行くように……。いや、中之島は行ったらいかん。ハナヤへ、ハバ、ハバ(早いとこ)行くように、おれが云うてたと、ことづけてくれ」
「オー・ケー」
 亀吉は闇の中へ姿を消してしまった。
 そのうしろ姿を見送りながら、次郎はぼそんと言った。
「なア、三郎《サブ》公、掏摸テ豪勢なもんやなア」
「うん」
 と、三郎も相槌を打った。
「――いつでも美味いもんは食べられるし……。フズーズボンチでも何でも……」
「阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい」
 次郎はさっきと同じように、弟を叱りつけたが、ふと溜息をつくと、
「――しかし、三郎《サブ》公、どう考えても掏摸テぼろいな。人の靴のドロとっても一円にしかなれへんけど、掏摸はまるどりやさかいな」
「ほな、掏摸になったらええなア」
「…………」
「兄ちゃん、掏摸になって、わいに兄ちゃんの靴みがかして、二人前の金払ってくれて、ハナヤおごってくれたら、ええなア。兄ちゃん、掏摸になりイ」
「ふーん」
 次郎は子供のくせに腕組みをして考えたが、やがて、
「――いや、やっぱし止めとこ。掏摸テええことと違う。強盗と同じこっちゃさかいな」
 そう言った時、次郎ははっと眼を輝かせた。
 自分の眼の前を、追われるように夢中で駆けて行く男の姿を見たのだ。
 豹吉だった。
「あッ、掏摸さんだッ!」
 次郎は思わず叫んだ。咄嗟に亀吉から頼まれたことづけを思い出した。
 そして、三郎と一緒に、
「掏摸さん、掏摸さん、兄貴、兄貴!」
 と呼びとめようとした。
 もっとも、亀吉からのことづけがなかったとしても呼びとめたに違いない。
 なつかしかったのだ。ハナヤの事が忘れられぬのだ。
 しかし、豹吉は立ち停ろうとしなかった。
 警官に追われていたのだ。
 次郎と三郎は、商売道具を放ったらかしてあとを追うた。
 必死になって逃げ行くあとを必死になって、どこまでも追うていった。
 ところが、その留守中……
 職場――という言葉は、かつて我々に使い古されて、汚れた豆債券のような感じがして、いやなのだが、ほかに適当な言葉はないし、次郎、三郎にとってもまさしく職場であるから、職場ということにするが……。
 二人の職場へ、一人の少女が黙々として近づいて来た。
 黙々として――といったのは、実は、その少女は唖なのだ。
 読者には、もはや明瞭だろう。――梅田の闇市場の食堂から、怪しげな刺青の男に連れ出された例の唖の娘だ。
 彼女はそっとあたりを見廻すと、素早く罐の中へ手を突っ込んだ。
 そして今日一日の次郎、三郎の儲けの金を鷲《わし》掴みにしたが、瞬間びっくりしたように飛び上ると、ブルブルふるえる手で、その金を罐の中へ戻した。
 そして、暫らくふるえながら佇んでいたが、思い切ったように、もう一度手
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