まるで、立ったまま尻餅をついた感じだった。
 掏摸を追うていたつもりだのに、掏摸に追われていたとは、一体何としたことであろう。
「莫迦をいえ! 掏摸は……」
 あいつだと、小沢は毛虫を噛んだような口で、怒鳴るように言った。
「阿呆らしい」
 と、亀吉は不平らしい唇を尖らせて、
「――わての方が本物の掏摸だす」
 虚栄を張っているのが、おかしかった。
「本物……?」
「へえ、わては大阪一の掏摸で、五寸釘の亀吉いいまんねン」
 小沢は危く噴き出しそうになった。それほど自称五寸釘の亀吉の顔は、きょとんと間が抜けていた。
「――その証拠に……」
 亀吉はひとごとのように言った。
「――わては昨日ちゃアんとあんたを掏りましたぜ」
「えっ……?」
 驚いたが、驚きはすぐ過ぎ去って、小沢はもとの表情になった。
 いや、むしろにやりとした笑いすら泛べて――小沢は亀吉に言った。
「莫迦をいえ。おれは君なんかに掏られるもんか。掏られたおぼえは……」
「……おまへんか。え、へ、へ、……」
 と、亀吉は奇妙な笑いを笑って、
「――ほんまだっか」
 嘗めるような視線で、小沢の眼を嘗め廻した。
 小沢はふと不安になったが、
「だいいち、掏られるものなんか、持ってるものか」
 と、突っ放すように言った。
 が、亀吉は突っ放されず、もう一度、
「え、へ、へ……。けッ、けッ、けッ……」
 黒い顔じゅう皺だらけにして笑うと、

「――チケットも持ったはれしめへんでしたか」
「チケット……?」
「荷物を預けはった……」
「あ。じゃ、貴様だなア……」
 君が貴様に変った。
「え、へ、へ……」
「こいつッ!」
 と、撲ろうとすると、亀吉は、
「あ、ちょっと、待っとくなはれ、待っとくなはれ。まア、きいとくなはれ」
「よし、きこう」
「実は、掏ったことは掏りましたけど、復員のお方のものを掏ったら悪いと、こない思い返しましてな……」
 亀吉は頭をかいて、
「――あんたを探し出して、返そうと思って、かけずり廻ってましてン。――いま、返しまっさかい、堪忍しとくなはれ」
「ふーン」
 小沢は思わず亀吉の黒い顔を、黒い顔だなアと微笑しながら、見つめた。
「――しかし、持ってないじゃないか」
「え、へ、へ……。売り飛ばしましてん。買い戻そうと思って、行ってみましたら、もう売れてけつかったちゅうわけで……」
「…………」
「そんな怖い顔せんとくなはれ。その代り、売った金は返しまっさかい」
 そう言って、上衣のポケットに手を入れた途端、亀吉は、
「あッ!」
 と、真青になった。
 落したのか、掏られたのか、二千円の金はいつの間にかなくなっていたのだ。
「しもたッ。落した」
 亀吉が叫ぶと、
「いや、掏られたんだ。あの男だなア」
 小沢は今さき自分がつけていた男の顔をちらと想い出した。
「――掏摸が掏られるなんて、だらしがないぞ」
 しかし、亀吉はそれには答えず、しきりにポケットの中を探していると、一枚の紙片が出て来た。
 それには鉛筆の走り書きで――
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「今夜十時中之島公園、図書館の前で待つ」
                    隼
  豹吉へ
 二伸 亀吉の二千円は掏らせて貰った。
    悪く思うな!
[#ここで字下げ終わり]

    夜のポーズ

 落日の最後の明りが築港の海に消えてしまうと、やがて大阪に夜が来た。
 太陽の眩しい光に憧がれる人達が姿を消し、夜光虫の青白い光に憧がれる人間共が大阪の盛り場に蠢く時が来たのだ。
 難波の闇市場の片隅では――
 次郎、三郎の兄弟が相変らず靴磨きの道具を前にして、鉛のようにさびしく、ちょぼんと坐っていた。
 昼間の場所は夜になると、真っ暗になるので商売も出来ない。
 だから、食堂の光がかすかに洩れて来る場所へ移ったが、さすがに夜は殆ど客は来なかった。
 それでも、じっと坐っていたのは、家にたった一人の肉親の母親が病気で臥ているからであろう。母親のことが気になって、一分でも早く家へ帰りたかったが、しかし、それよりも先立つのは、
「一円でも沢山持って帰ろう」
 という想いであった。
 食堂から洩れて来るのは、光だけではなかった。
 肉を焼いているのか、その香いがプンプン漂ようて来る。
「ああ、ええ香がしよる」
 三郎はちいさな鼻をピクピクさせて、
「――兄ちゃん、ハナヤのカツレツ美味かったなア」
「うん、オムレツも美味かったぜ」
 と、次郎も唾をのみこんだ。
「フズーズボンチも美味かったな」
 と、三郎、
「阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい」
 と、次郎は叱りつけたが、ふと、ためいきをついて、
「――しかし、珈琲も美味かったぜ」
「わいはあんなにがいもンより、エビフライの方がええ。――ああ、おなか
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