ようなものであった。意気込んで舞台へ飛び出したが、相手役がいなかったというバツの悪さをごまかすには、せめて思いも掛けぬお加代という登場人物を相手にしなければならない。
「へえん、随分ご親切だけど、かえって親切が仇にもなるわよ」
 と、お加代はしかし大根役者ではなかった。

「親切が仇に……? なんぜや……?」
 豹吉はききかけて、よした。
 他人の意見なぞ、どうでもよい。自分の考えだけを押し通せばいいのだ。頼りになるのは、結局自分自身だけだ――というのが、豹吉の持論だった。
「おい、八重ちゃん……」
 と、豹吉は店の女の子を呼んで「――この子供らに、メニューにあるだけのもン、何でも食わせてやってくれ」
 どうやら靴磨きの少年達に御馳走することには、反対らしいお加代への面当てに、わざとそう言った。
「何でもって、全部ですか」
 女の子はまごついてしまった。
「そうだ。――ハバ、ハバ!」
 豹吉はいらいらして言った。ハバとは「早くしろ」という意味の進駐軍の用語である。
 珈琲、ケーキ、イチゴミルク、エビフライ、オムレツ……。
 運ばれて来るたびに、靴磨きの兄弟――
「うわッ、うまそうやな」
 と、唾をのみ込み咽を鳴らしながら、しかし、
「――これ食べてもかめへんか。ムセンインショク(無銭飲食)でやられへんか」
 と、不安そうに豹吉にだめを押した。
「心配するな」
「大将、ほんまに新円持ってるのンか」
「情けないこときくな」
 豹吉は上衣の胸のあたりをポンと敲いて、
「――この通り、掏られも落しもせんさかい、安心して食べろ」
 今さきハナヤの入口で自分を掏ろうとした頓馬な駆け出しの掏摸の顔を想い出しながら、にやりと笑ったが、ふと時計を見ると、もう豹吉の頬からえくぼが消えてしまった。
 十一時半……。
 十時に来ていつも十時半に帰ってしまう雪子だったから、もうこんな時間になって来る筈もない。
「しかし、なんぜ来ないのかなア。昨日おれの言ったことで気を悪くしたのかなア。それとも、なんぞ起ったンやろか」
 ふとそう呟いた時、お加代の声が来た。
「あんたも随分物好きな人ね」
「今更言わんでも判ってる。おれから物好きを取ってしもたら、おれという人間がなくなってしまうよ」
「そりゃ判ってるわよ。だいいち中学校の体操の教師を投げ飛ばして学校を追い出されたくらいだから……」
「じゃ黙っとれ!」
「いや、喋るわ」
「選挙はもう済んだぜ」
 それには答えず、お加代は、
「あんた御馳走したげるのはいいけど、寝てる子起すようにならない……? その子たち、やみつきになったらどうするの……?」
「兵古帯のくせに分別くさいこと言うな」
「あんたは分別くさくなかったわね」
「何やと……?」
「分別があれば、あんな怪しい素姓の女に参ったりしないわね。何さ、そわそわ時計を見たりして……。」
「怪しい……? 何が怪しい素姓だ……?」
「あら、あんたあの女の素姓しらないの?」
 お加代の声はいそいそと弾んだ。

「素姓みたいなもン知るもんか」
 豹吉はペッと唾を吐いて、
「――女に惚れるのに、いちいち戸籍調べしてから惚れるくらいなら、俺ははじめから親の家を飛び出すもんか」
 古綿をちぎって捨てるように言った。
 口が腐っても、惚れているとは言わぬ積りだったが、この際は簡単に言ってのける方が、お加代への天邪鬼な痛快さがあった。
 果して、お加代は顔色を変えた。
 豹吉が雪子に興味を抱いているらしいことは無論知っていたが、しかし、はっきり豹吉の口から聴いてみると、改めて嫉妬があり、
「ただでは済ませるもんか」
 という自尊心のうずきが、お加代の額にピリッと動いた。
「なるほど、家を飛び出すだけあって、あんたも随分おつな科白が飛び出すわね。しかしわれらのペペ吉が惚れるもあろうに、ストリート・ガールにうつつを抜かした――というのはあんまりみっとも良い話じゃないわよ」
 ペペ吉とは豹吉の愛称だ。むかし「望郷」という仏蘭西映画にペペ・ル・モコという異色ある主人公が出て来たが、そのペペをもじったのか、それとも、ペッペッと唾を吐く癖からつけたのか。
「ストリート・ガール……?」
 人を驚かすが自分は驚かぬという主義の豹吉も、さすがに驚きかけたが、危くそんな顔は見せず、
「――嘘をつけ!」
「そんな怖い眼をしないでよウ。――嘘でない証拠には、あたしはちゃんとこの眼で見たんだから。ゆうべ雨の中で男を拾ったところを」
「どこでだ……?」
「戎《えびす》橋……相手の男まで知ってるわ。首知ってるどころじゃない。名前をいえば、針が足の裏にささったより、まだ飛び上るわよ」
「言ってみろ、どいつだ……?」
「ガマンの針助……」
 と、言って、にやりと笑うと、
「……に、きいてごらんよ」
「じゃ……? あ
前へ 次へ
全36ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング