ことを……。
 その雪子だ。
 豹吉があれほど時間を気にしてハナヤへやって来たのは、実はその雪子が毎日十時になると、必ずハナヤへ現れるからであった。
 しかも十時前に来ることはあっても、十時に遅れることはない。
 律義な女事務員のように時間は正確であった。
 まるで出勤のようであった。しかし、べつに何をするというわけでもない。ただ十時になると、風のようにやって来て、お茶を飲みながら、ちょぼんと坐っているだけだ。そして半時間たつと再び風のように出て行くだけである。一日も欠かさなかった。
「変な女やなア」
 豹吉はそう思う前に、まずその女が眼触りであった。
 ハナヤは豹吉やその仲間のいわば巣であり、ハナヤへ来れば、仲間の誰かが必ずトグロを巻いていて仲間の消息もきけるし、連絡も出来る。
 ところが、仲間でも何でもない得体の知れぬ女が、毎日同じ時刻に、誰と会うわけでもなく、一人でトグロを巻きに来ているのだ。
 たしかに眼触りであった。
「君何ちゅう名や」
 女にはこちらから話し掛けたことのない豹吉だったが、ある日たまりかねて話し掛けて行った。
「雪子……。名前きいてどないするの……?」
「まさか、惚れようと思ってるわけやないが……」
 と、十八歳とは思えぬませた口を豹吉は利いて、
「――ちょっと気になるな」
「何が……?」
「誰に会いに来た(北)やら南やら……?」
「ふん」
 と、豹吉のまずい洒落を鼻の先で笑って、
「――たぶんあんたに会いに来たンでしょう。――さア帰ろうッと」
 起ち上ると、じゃ明日また……と、雨の中へ風のように出て行った。
 豹吉は軽い当身をくらったような気がして思わず畜生とついて行きかけたが、何かすかされた想いに足をすくわれてぽかんと後姿を見送っていた。
 後姿が消えても、白い雨足をいつまでも見ていた。
 すると、豹吉は雪子に無関心でおれなくなった自分をぴしゃりと横なぐりの雨のように感じて、ふと狼狽した。
 それが、昨日のことであった。
 そして、今日――。
「何だい、あんな女……」
 と、思いながらもやはり豹吉は十時にやって来たのだ。
 ところが、雪子は来ていなかった。こんなことは今までになかったことだと、もう一度見廻すと、若い娘の媚を含んだ視線に打っ突かった。
 しかし雪子ではなかった。

「なんだ、お加代か」
 豹吉はペッと唾を吐いた。
 同じ仲間の「ヒンブルの加代」と異名のあるバラケツであった。
 バラケツとは大阪の人なら知っていよう。不良のことだ。
 しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。
 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。
 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。
 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。
 それ故の「ヒンブルの加代」だが、べつに「兵古帯お加代」という名も通っている。
 洋装はせず、この腕の刺青をかくすための和服に、紫の兵古帯を年中ぐるぐる巻きにしているからだ。
 従って、髪も兵古帯にふさわしくお下げにして、前髪を垂らしているせいか、ふと下町娘のようであり、またエキゾチックなやるせなさもある。
 昔はやった「宵闇せまれば悩みは果てなし……」という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひどい目に会う学生が多い――それほどお加代は若い男の心をそそる魅力を持っていた。
 それかあらぬか、仲間の男たちは、
「ヒンブルの加代のことを考えると、何だかやるせなくなって来る」
 と、空しく胸を焦していたが、ただ一人豹吉だけは、癖の唾を吐いても、鼻もひっ掛けなかった。
 それ故、雪子の代りに見たお加代の姿ほど、豹吉を失望させたものはなかったが、一方、
「なんだ、お加代か」
 という豹吉の言葉ほど、お加代を失望させたものはなかった――とも言えよう。
 しかし、さすがにお加代は寂しい顔を見せずに、
「あたしで悪かったわね。――折角誰かさんに会いに来たのにね」
 と、豹吉より四つ歳上だけの口を利いた。
「阿呆ぬかせ! 俺はこいつらに珈琲を飲ませてやろうと思うて、来ただけや」
 連れて来た靴磨きの兄弟が、この際の楯になった。
 勿論、そのつもりでハナヤへ来たには違いない。しかし、その二人を連れて来るという思いつきを豹吉に泛ばせる胸底には、たしかに雪子のことがあった。
 一人で来るのにもはや照れていたのだろうか、それとも、いつもは一人で来るのに、今日はいきなりそんな連れと一緒に来たことで、雪子をあっと言わせたい例の癖を出したのだろうか。
 いずれにしても、肝腎の雪子がいないとすれば、まるでキッカケをはずされた役者の
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