はは……。担いでものらんぞ、あはは……」
 豹吉はわざと大きく笑ったが、しかし、その笑いはふと虚ろに響き、さすがに狼狽していた。
 ガマンの針助……。
 この奇妙な名前の男について述べる前に、しかし、作者は、その時、
「やア、兄貴!」
 と、鼻声で言いながら、ハナヤへはいって来た十七、八の、鼻の頭の真赤な男の方へ、視線を移さねばならない。
 豹吉を兄貴と呼んだ所を見れば、同じ掏摸仲間であろう。名前は亀吉……。
 首が短かく、肩がずんぐりと張り、色が黒い。亀吉というのが本名なら、もう綽名をつける必要はない。
 豹吉の傍へ寄って来ると、
「兄貴、えらいこっちゃ。刑事《でか》の手が廻った!」
 亀吉は血相を変えていきなり言った。

 お加代の顔には瞬間さっと不安な翳が走ったが、豹吉は顔の筋肉一つ動かさず、ぼそんとした浮かぬ表情を、重く沈ませていた。
「……刑事《でか》の手が廻った」
 という言葉の効果を期待していた亀吉は、簡単にすかされて、ひょいと首をひっ込ませると、
「けッ、けッ、けッ……。一杯|担《かつ》ぎ損いや。へ、へ、へ……。兄貴をびっくりさせるのはむつかしいわい。う、ふ、ふ……。しかし兄貴はなんでこない何時もびっくりせえへんネやろな。ヒ、ヒ、ヒ……」
 実にさまざまな、卑屈な笑いを笑った。
「当りきや。そうあっさりと、びっくりしてたまるか。おい、亀公、お前この俺を一ぺんでもびっくりさせることが出来たら、新円で千円くれてやらア」
 蓄膿症をわずらっているらしくしきりに鼻をズーズーさせている亀吉の顔を、豹吉はにこりともせず眺めて、
「――お前ら掏摸のくせに、千円の金を持ったことないやろ」
「持たいでか。それここに……」
 亀吉は胸のポケットを押えた。
 豹吉はちらと見て、
「なるほど、持ってやがる。まア二千円ってとこかな」
「えッ」
「どや、図星やろ。あはは……。それくらいの眼が利かないで、掏摸がつとまるか。まア、掏られぬように気イつけろ」
 豹吉が言うと、お加代もはじめて微笑して、
「亀公にしてはめずらしい大金ね。拾ったの?」
 と、冷かすと、亀吉はふっと唇をとがらせて、
「何をぬかす。拾った金なら届けるわい」
「じゃ、掏った金なら持ってるの……」
「そや」
「本当に掏ったの……」
「当りきシャリキ、もちろん……おまけに、掏ったのが紙一枚、それが二千円とはごついやろう」
「また担ぐんじゃない……」
「まア、聴け……」
 そして亀吉の喋ったのは、こうだった。
 ――昨夜、亀吉は大阪駅の東出口の荷物預り所で、脊中の荷物を預けている復員軍人を見た。
 亀吉は何思ったか、寄って行って、その復員軍人が、カードに、
「小沢十吉……」
 と、書いたのを、素早く読み取った。
 そして小沢が引換のチケットをズボンの尻にねじ込んで地下鉄の中へ降りて行くと、ひそかにそのあとをつけ、雑踏の中で、そのチケットを掏ってしまった。
 二時間後、亀吉は何食わぬ顔をしてその荷物を受け取りに行き、闇市へ持って行く。
「……煙草一本吸う間に、どや二千円で売れたとは鮮かなもんやろ」
 と、胸を張った途端、亀吉の頬がピシャリと鳴った。
「莫迦ッ! 復員軍人と引揚げだけは掏るなと、あれほど言うてるのが判らんのか。復員軍人や引揚げはみな困ってるネやぞ。盗んだ品は買い戻して、返して来い」
 豹吉は亀吉よりも次郎、三郎の方がびっくりするくらい、大きな声で怒鳴りつけた。

「兄貴殺生やぜ」
 と、亀吉はなぐられた頬を押えながら、豹吉に言った。
「何が殺生や……?」
「そうかテお前、折角掏ったもんを、返しに行け――テ、そンナン無茶やぜ」
「おい、亀公、お前良心ないのンか」
 豹吉は豹吉らしくないことを言った。
「ない」
「ない……? 良心がない……?」
「あったけど、今はないわい」
 亀吉はふと悲しそうに、
「――二人とも死んでしもた」
「阿呆、その両親と違うわい。心の良心や」
「ああ、それか。それやったら、一寸だけある」
「ほな、返しに行け」
「…………」
 亀公は何か言いたそうに、唇を尖らせた。
「復員軍人テお前どんなもんか知ってるやろ。たいてい皆いやいや引っ張り出されて、浦島太郎になって帰って来た連中やぞ。浦島太郎なら玉手箱の土産があるけど、復員は脊中の荷物だけが財産やぞ。その財産すっかり掏ってしもても、お前何とも感じへんのか」
「…………」
 亀吉は眼尻の下った半泣きの顔を、お加代の方へ向けた。
 お加代は煙草を吹かしながら、ぼそんと口をはさんだ。
「……良心か。ペペ吉も良心なんて言い出しちゃ、もうおしまいだねえ。女に惚れると、そんなにしおらしいことを云うようになるもんかなア。掏摸をするのに、いちいち良心に咎めたり、同情していた日にゃ、世話はないわねえ」
「お前は黙っと
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