のね」
小沢がだまっているのを見て、娘はもう一度その言葉を言った。
小沢は黙々と立ち上った。そして怒ったような顔をして娘の横へもぐり込んだ。寝台には若い娘の体温と体臭がむうんとこもっていた。
寝台は狭かったので、体温が伝わってきた。
小沢は娘の寝巻の下が、裸であることを意識しながら、かえって固くなっていた。
娘の方から寝台へ誘ったのだし、そして、べつにそれを拒みたい気もなかったので、少しはいそいそとしてそれに応じたのだし、今はもう二人があり来たりの関係に陥るには、簡単なきっかけだけが残っているに過ぎなかった。
例えば、ちょっと腕を伸ばせば、娘の体は磁石のように吸い寄せられて来るのだ。それを拒もうとする羞恥心よりも、何かにすがりつきたいという本能の方が強いというのが、女の本性であることを、小沢は知っていた。
好奇心は女の方が強いのだ。しかも若い娘の場合は、一層はげしいのだ。
そう知っていながら、小沢はしかし腕を伸ばせなかった。いわゆるインテリの気の弱さであろうか。
一つには、娘の正体がまったく解らないということも、小沢を自重させていた。それに、娘の方から寝台へ誘ったといっても、万一それが無邪気な気持からであったとすれば小沢の思い違いはきっと悔恨を伴うだろう。
「君、こうしていて怖くない……?」
小沢はそうきいてみた。すると、娘は、
「怖くないわ、あたし怒らないわ」
と言った。
小沢は暫らく口も利けなかった。
その夜のことは小沢にとって思いもかけぬことばかしであったが、しかし、娘のその言葉ほど小沢を驚かせたものはなかった。
「これが若い娘の口から出る言葉だろうか。いや、恋人に言うならまだしも、おれはただ行きずりの男に過ぎないじゃないか」
小沢は間抜けた顔をして、芸もなくなっていたが、やがて口をひらくと、
「本当に、何をされても平気なのか。僕がどんなことをしても、怒らないのか」
娘は黙ってうなずくと、そっと小沢の方へ寄り添うて来た。
小沢は身動きもしなかった。指一本動かさなかった。そして、
「君は今まで……」
と、思わず野暮な声になって言った。
「男と宿やへ来たことがあるのか」
「え……?」
娘は不意を突かれたように、暫らくだまっていたが、やがて、つんと顎を上げると、
「――あるわ」
もう昂然とした口調だった。
「ふうん」
小沢は何か情けなかった。
「――好きな男と……?」
「好きな男なんかあれへん」
「じゃ。嫌いな男とか……?」
「嫌いな男もあったわ」
「嫌いな男とどうしてそんなことをするんだ?」
われながらおかしい位、むきになっていた。
「食うためよ。あたしの罪じゃないわ」
寝る前とは打って変ったように、娘はズバリと言ってのけた。
「じゃ、君は……?」
ちょっと躊躇したが、思い切って、
「――僕に体を売るつもりか」
「違うわ。あんたにはお金なんか貰えんわ。あんたはあたしを助けてくれたでしょう。だから……」
「だから、どうだっていうんだ」
「だから、あんたが何をしてもかめへんと思ったのよ」
「そんなお礼返しは真っ平だ。――だいいち僕がそんなことをすると、思ってるのか」
「だって……」
と、娘は甘えるように、
「――男って皆そんなンでしょう……?」
「そりゃ君の知ってる男だけの話だ」
「…………」
「莫迦だなア、君は……。僕が好きでもないのに、そんなことをいう奴があるか。さアもう寝よう」
小沢はくるりと娘に背中を向けた。娘の商売が判ってしまうと、かえって狂暴な男の血が一度に引いてしまったためか。それとも一種のすねた抗議の姿態だろうか。
娘は暫くだまって肩で息をしていたが、いきなり小沢の背中に顔をくっつけて、泣き出した。
「何を泣いてるんだ……?」
小沢はわざと冷淡な声を出しながら、窓の外の雨の音を聴いていた。……
悪の華
午前六時の朝日会館――。
と、こうかけば読者は「午後六時の朝日会館」の誤植だと思うかも知れない。
たしかに午前六時の朝日会館など、まるで日曜日の教室――いや、それ以上に、ひっそりとして、味気なくて、殺風景でいたずらにがらんとして、凡そ無意味な風景であろう。
しかし、午前六時の朝日会館を描くことは、つねに無意味だとは限らない。
例えば、そんな時刻、そこには鼠は走り廻っても、猫の子一匹もいない筈だのに、時ならぬ、場違いの鼾《いびき》が聴えて来たとすれば、もはや無意味ではあるまい。まして月並みではない。
鼾は公演場の休憩室の隅にあるソファから聴えていた。
いつ、どこから、どう潜り込んだのか、そのソファの上で、眠っている人間がいるのだ。
宿なしにしては気の利いた寝床だ。洒落ている。洒落ているといえば、宿なしとは見えぬくらい、洒落た服装である。
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