小沢に返そうとして持っている二千円の金を掏られて、その代り隼団から青蛇団の豹吉へあてた果し状がはいっていたことを知った――それからのことだ。
 それから……。
 小沢は亀吉と別れて、宿へ帰った。
 が、雪子は既に宿にいなかった。
「着物がなくちゃ外へ出られない筈だのに、一体どうして著物を手に入れたんだろう」
 と、小沢は不思議に思う前に、まず、
「――あれほどおれの帰りを待ってるように、念を押したのに、どうして、おれに黙って出てしまったのだろう」
 と、腹が立った。
 いや、むしろ、寂しかった。
「こんなに、おれが著物のことで奔走しているのに……」
 という、何かすかされた気持から来る寂しさだけではなかった。
 待っていると思っていた雪子の顔が、見えないという寂しさだった。
 一夜を共に明しただけで、こんなに親しみ、いや、なつかしさを感ずるとは、一体どうしたことだろう。
 その一夜、雪子のからだには指一本触れなかったのに……。いや、むしろそれだからこそ、一層なつかしさがあるのではなかろうか。
 取りかえしのつかぬ気持だった。といっても、
「こんなことなら、昨夜なぜ雪子に強く出なかったのか」
 という、いやらしい未練ではなかった。
 雪子という娘の身のまわりに漂っている何か痛々しい、暗い、寂しい翳への、一種のノスタルジアに似た気持が、「もしかしたら、もうあの娘に二度と会えないのではないか」
 という意味での、取りかえしのつかぬ想いに、小沢をうろたえさせたのだ。
 ところが、女中の話では、
「昨夜ご一緒に来やはった女の方、あれは本|真《ま》の奥さんと違いまっしゃろ――。あの女はこれでっせ」
 と、人差指をクの字に曲げるのだった。
 手癖が悪い――泥棒だというのである。
 驚いて、きくと、隣の部屋の女客の著物を盗んで逃げたというのである。
 しかし、そうきいても、小沢は雪子に失望したり、急にいやになったり、するようなことはなかった。
 むしろ、何だかますます可哀想なような気がするのだった。
 小沢は宿屋を飛び出すと、雪子の行方を探して歩いた。
 が、夜になっても、雪子の姿を発見することは出来ず、空しく探しているうちに、夜の十時を過ぎた。
 小沢はふと亀吉のポケットにはいっていた果し状のことを思い出すと中之島公園へ駈けつけて行った。
 小沢が中之島公園の図書館の前へ駈けつけた時は――。
 豹吉を取り巻いている隼団の連中を兵古帯のお加代をはじめ青蛇団の連中が取巻き、龍太の拳銃とお加代の拳銃が虚々実々の阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《あうん》の呼吸をはかりながら、今にも火花を散らそうとしていた。
「諸君!」
 と、小沢は声をかけた。
「誰や、お前は? ……どこのどいつや」
 と、隼団の一人が言った。
「僕は一介の復員兵士だ」
 と、小沢は言った。
「――僕は君たちのように、龍だとか豹だとか虎だとか、親のつけた平凡な名前以外の名前を持っておらん。また、青蛇だとか、隼だとか、まるで動物園まがいの団体にも加盟しておらない」
「何ッ……? お前らの出る幕やない。引っ込んでろ」
 と、一人が叫んだ。
 小沢は平然として、物凄く速い口調で喋り立てた。
「なるほど、僕は出番をまちがえて、他の役者の出る幕の舞台へ飛び出した間抜け役者かも知れない。しかし、とにかく舞台へ飛び出したのだ。何とか科白を喋ってから引き下るということにしなければ、恰好がつかないし、今更引っ込みもつかない」
「じゃ、何を喋りに来たんや」
「結論を先に言おう」
 と小沢はじろりと一同を見廻して、
「――喧嘩というものが、いかにくだらぬものであるかということを、君たちに納得させたいんだ」
「大きにお世話や。引っ込んだらどうや」
「まア、聴け! 日本人はかつては、暴力や喧嘩沙汰の好きな国民だった。だから戦争をおっぱじめて、こんなみじめなことになってしまったんだ。ところが君たちは、これからの日本の再建に一番重大な役割を果さなきゃならない君が、今なお暴力や喧嘩を好み、腕力でことを決しようとしている」
 小沢はいつか演説口調になっていた。
「――こんなことで、一体どうなるんだ。しかも、君たちの中には、携帯を禁じられている銃を、持っている者もいる。君たちは瀕死状態の日本を、ますます窮地に陥入れたいのか」
「…………」
 誰も答えなかった。小沢はつづけた。
「世には、暴力を以てしか解決できないような問題は、何一つとして存在しない筈だ。撲らなきゃ判らないというのは、もう昨日の日本人の言葉だ。今日の日本人は、人を撲ったり、傷つけたり、殺したりする野蛮な手を封じられた代り、口を使ってする自由は許されている。口は飯を食うためのものだ。が、飯は腹一杯食べられない。だからといって、口の用途を十分発
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